勝海舟生誕地

所在地
墨田区両国4-25
電話番号

観覧料
無料
交通案内
電車の場合 JR総武線「 両国 」駅西口  徒歩5分
都営大江戸線「 両国 」駅 徒歩5分
バスの場合 (両28)「 両国4 」下車 徒歩1分
(錦27)「 両国4 」下車 徒歩1分
(墨38)「 両国4 」下車 徒歩1分
勝海舟は、本所亀沢町(今の伊勢海部屋の近く)の男谷家に文政六年正月(一八二三)に生まれました。初めの名は義邦、鱗太郎といい、徳川幕府から従五位下安房守に叙せられ安房守ど称しました。維新後は安芳と称しました。父小吉は勝家に養子に入ったが、小禄の上、品行定まらず、ために海舟も常に貧乏になやまされました。 海舟は島田見山について剣道を学び、向島弘福寺に参禅しました。また、永井青崖について蘭学を修め、西洋の兵学、砲術、航海、測量法を研究する等、新知識の吸収に大わらわでした。 こうした彼は、崩解寸前の幕府に重用され、大活躍します。わけても、万延元年正月、かん臨丸艦長となって、邦人初の太平洋横断の快挙をなしとげたことは、余りにも有名な話です。 さらに、官軍の江戸城攻撃に際し、山岡鉄舟を西郷隆盛の下につかわし、江戸城無血開城に成功したことは、数ある海舟の功績の中でも、ひときわ光るものでしょう。江戸市民が戦火から救われ、江戸の貴重な文化財をどれほどたくさん守ったか知れません。徳川慶喜が駿河七○万右に封ぜられると海舟は家族を挙げて静岡に移りました。後、明治五年十月東京赤坂永川町に住むようになり、参議兼海軍卿になるなど、明治政府でも重用されますが、明治三二年一月一九日、七七才で病歿します。大田区千束池畔に葬られました。当蒔は郊外の静かな所だったからでしょう。なお、彼は短躯、緒面(赤ら顔)身長わずか五尺余にすぎませんでしたが恨光鋭く、一種おかしがたいものがあったと古老は伝えています。

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