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下町の顔
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第26回
『古典踏襲・繊細で温かな芸』

<プロフィール>
昭和23年、墨田区本所吾妻橋に生まれる。昭和42年柳家小さん師匠に弟子入り。昭和56年真打。昭和59年国立演芸場金賞、昭和62年文化庁芸術祭賞、平成6年浅草演芸大賞新人賞、その他多数受賞。趣味は旅行、スキー、料理。落語協会理事。江東区在住。
落語家
柳家 さん喬さん

取材のために柳家さん喬師匠と待ち合わせ。向かい側に「鈴本演芸場」。幟がはためいて、今日の演題を掲げた案内板の前に人だかり。華やかな雰囲気です。その楽屋口辺りからさん喬師匠が?と目を凝らしていましたら、何と雑踏の中からウォークマンを耳につけて、リュックを背負われたジーンズ姿の師匠が現われて、もうびっくりしました。高座では聴かれないお話を期待して喫茶室ルノワールに……


1.通り過ぎてくだされば
★落語協会の理事をされているということですので、まず落語全体のことからお訊きしたいと思います。落語業界の景気というか、最近の人気はどうでしょうか?
落語界全体は非常に活発ですね。個々の会にお客様が非常に好意的に来てくださっています。30人とか40人、どうかすると100人くらいの規模の会になっていますね。昔は、お芝居は朝から、落語は夜と決まっていました。皆さんが夕ご飯を食べたあとに寄席にいらして楽しんだんですね。今もそれが地域の娯楽の一つとしてありますね。
寄席のほうは長期安定というか、増えもせず減りもせずというのが状況です。つい10年位前はタレント重視の時代もありましたが今は違いますね。あの人の落語を聴きにいくという時代。

★ライブハウスのような感じですよね。
ちょっと気が向いて少人数で集まれる箱という意味でね。お蕎麦屋の旦那がうちの二階でやれよとかね。うちの店があるのは地域の皆様のおかげ、どういう形でサービスをしてお返しをしたらいいかと考えられた末に、昔は寄席を作ったんですね。
若い人のが多いんじゃないかな
江戸の末期には360軒近くの寄席があったんです。それが全て営業をなすためにあるのではなく、厚生施設の提供を大店の主人がしていったんですね。

★そうだったんですか。ところで寄席落語は今の若い人から見ると古臭いというイメージがありますが、まだそういうことはありますか?
ないですね。寄席に来る若い人は多いですよ。この間、毎年8月の恒例で上野の鈴本で僕と権太楼さんがとりをとってきたんですけど、7割方が若い人です。20代半ばから40代。でもデートの感覚ではないな(笑)。
ごくまれに親に連れられて落語に通って、それから自分が10代になって一人で来るという人はいますよ。でもそういうのはみんな噺家になっちゃいます。(笑)

★私はさん喬師匠の落語を何回か聴かせていただいて、ああいいなぁってファンになっちゃったんですが、20代の頃は面白いとは思わなかったかもしれないですね。
昔は聴きに来てくださる方が人生経験・社会経験の中で、あっそうそうと理解できることがたくさんありましたね。今は、いわゆる題材を表現する方法に変わってきましたね。例えば上等なマグロをあぶって、あぶりトロって。それを食べて若い人がうまいと言いますよね。僕なんかは冗談じゃないよ。上等なマグロをなんであぶる必要があるんだよ。でもそれは脂が少し落ちるからうまいんです。それって食べ方の変化。調理方法が変わっただけで同じマグロを食べてることには変わりはないんです。

★そういう若い人をさん喬さん自身が取り込んでいこうという姿勢はあるのですか?
それは考えていません。若いお客さんを導入してくれるのはやはり噺家の若いパワーですから。僕は若い人が聴いてくださって「楽しかったです。面白かったです」というのはもちろん嬉しいですけど、そういう人を取り込もうとは思わないですね。

当日の高座があった上野鈴本演芸場
★そうすると客層が年を取って聴く人がなくなってしまって落語の人気が廃れてしまう、ということはないんですか?
ないでしょうね。例えばユーミンね。あの人はいつも必ず通り過ぎるんですよ、年齢で。

★ある程度の年齢が過ぎれば好きな人は好きになるということですか?
そう、ユーミンの歌を「ああいいネェ」って言いながら聴いて、やがて卒業をしていく時期がある。また次の10代の人が聴いていく。でもユーミンは年を取っていく。どんどん年をとっていく。でも通り過ぎる人は10代で通り過ぎていく。さだまさしもそうですよ。
だから新しい人を取り込もうということはない。若い人が若い人を落語の中に導いてくれて、それでその方々が僕を通り過ぎて聴いていってくれる。それでいいと思う。

★その落語業界を理事さんの一人として、何か変えていきたいことってありますか?
変えて行きたいということは特にないですね。私自身が常に動いていくことで古い噺が常に生きていくということになりますから。
例えば、江戸時代に人情話としてつくりあげられた文七元結という噺があるのですが、それを聴いて皆さんが涙して、そしてすごくさわやかな気分になったっておっしゃいますね。それは日本人が持っているどうやったって拭い捨てることが出来ない感性なんですね。今は落語も外国の方にも理解していただいて笑いに関しての理解度は非常に高い。ですが奥底にある日本人の持っている人間性、基本的なもの、そういうものが理解されることは非常に少ないですね。ですが、その辺も徐々に理解されていますが。

★日本人の落語を原点とした笑いのレベルって高いですよね。
外国人はドタバタ騒動でよく笑いますね。まっ、でもニールサイモンなんてまことにペーソスを持った人もいますけどね。例えばペーソス、哀愁とか物悲しさなんてものは外国のもんかと思ったら冗談じゃない。落語の中にペーソスはいくらでもあるんですね。落語って哀しい噺のなかにその哀しいことを笑いによって普通のところまで持ってくる、転化させる努力をするということがありますね。
例えば吉原に行って女にだまされてヘコモコになって帰ってくる。へコモコにあった人間は今で言えば詐欺にあったようなもんでしょ。でも「やっぱりだまされたお前が馬鹿だよ」で笑っちゃう。悲惨ではないんですよ。命をとられるわけじゃない。お前もあいつに惚れきって金をこんなにつぎ込んでもだまされた、それはお前が最初から悪いんだよ。そんなにつぎ込むほどの女じゃないだろうって。普段に仕事もしないからこういう目に会うんだよ、馬鹿やろうだね。そう言うその仲間の中に自分もいるわけですよ(笑)。そういう滑稽さ。笑いの中にある哀しさ。本来だったら馬鹿やろうって喧嘩になるようなことが笑いで終わってしまう。でも今はこれ笑いにならないんですよ。

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