江東活學大學

第5回

<プロフィール>
江東区 南砂在住。
1948年江東区石島生まれ。サロン・ド・パリ会員。主に江東区の風景を描く。『深川の会』主宰。砂町文化センター・東大島文化センタースケッチ教室講師
『水彩都市・
江東区を描く・心を描く』
菅野 たみおさん

■講演

●絵画教室へのきっかけ●
今から15年前。スケッチブックを抱えてバスを待っていたら、知り合いのラーメン屋のおやじさんから「どこ行くんだよ。手に持ってんの、絵を描くやつかよ」。って声をかけられたんですね。
喘息で仕事がやれないお兄さんに、スケッチブックを持たせて絵を描こうと、横浜に絵を描きに行くために、バス停にいたところだったんですね。
「皆にも教えてよ」って、おやじさんが言うんです。
人に教えることはできないが一緒に描こうと、喫茶店の奥を借りて、週一回、毎週土曜日の午後、小さな絵画教室の形ができました。

●絵の原点●
今、私は55歳です。江東区生まれですが、両親のふるさとの福島の家に小学生のときに描いた絵がいつも飾ってあってね。それが自分の絵の原点かもしれない。
家が鉄工所でしたから家の仕事を適当にやってね。食っていきました。絵は楽しいのでずっと描いていました。部屋のカーテンを引いて電気を点けて、親は何をしているのかと思うから、親には隠れながら描いていましたね。
30代半ばに、お前、家の仕事がそんなに嫌なら店をやるかって、親父が言った。店やりたいなぁって、お好み焼き屋をやりました。店に絵を飾りました。マスター絵を描くんですか?って、たまにお客さんがわけてくれてって。自分から値段はつけられないからお客さんに「いくらぐらいなら要るの?」と聞くと、結構自分が思っていたより高い。
店は夏場は暇で家賃払うのもきつい。そのとき絵を欲しいと注文があった。このくらいの絵を飾りたい。いくら?と聞かれて、自分の店の家賃の12万を言ったらそれで売れた。驚きましたね。忘れもしない出来事でしたね。
僕は若い頃にけんかをして深川警察に連れて行かれたこともある。うちの親父は剣道をやってて、名前は知られていた。少年課に連れて行かれるとこの中に菅野はいるかと言われて叩かれたことも。
あそこの長男はろくなものじゃないと言われ、親父の名前をずいぶん汚したと思う。その僕が絵によって変わった。絵の生徒も増えて小遣いも何千円か増えた。新聞社も取材に来た。大きな記事だった。喫茶店が絵画教室になったと。親父も「うちの息子もこつこつとやっているようで」って言ってくれるようになった。
絵を通して、信用を受けなかった頃の恩返しをできるのではないかと思いました。

●絵の心●
絵はこう描こうというものを僕は持っていない。どうやって生徒さんに接しますかと時々聞かれるけれど教室は学校じゃない。皆さん仕事の合間にやってくる。成績の良い順になんてとんでもない。初級・中級・上級なんて分けたくない。
自分で見て描けること事態もう初級じゃない。旅行に行っても何も感じないという人はちょっと難しいかもしれないけど、花見て、景色見てきれい!と思える人は描けると思う。自分の持っているものの中で楽しく嬉しいこと一つくらいあれば描けます。

僕の描いている絵は偉そうに見えない、と思う。このくらいなら俺でもかけそうと言われる。それでいい。
水彩画の前は油絵をやってました。その頃はえらそうにふんぞり返っていましたよ。上野の美術館に行っても腕組んでなめられないように眉間にしわを寄せていましたね。そんな時期ありました。今に見ていろ、って。
描けない時期もありました。30半ばに体を壊して入院しているとき。俺は何のために絵をやっているんだろう。公募に出します。落ちます。なんでこいつが受かって俺が落ちる……。落ち込みましたね。でも、ちょうど水彩画に変る頃に偶然に教室を持つようになって、人との接し方、それまでの自分の生き方が変わりました。それと油絵から転向したのにもう一つ理由があります。娘が生まれて油絵を描いていると咳をする。油彩の匂いが悪かったみたいです。
水彩画になっていろんなことを考えましたね。
日本人は小手先で字を書きます。外国の人は横に走らせます。そこに大きな違いがあるような気がしますね。じゃ俺も外国の人みたいに横線を練習してみようと、ある日ふと思った。自分も罫線の中に小さな字を書くタイプだったから、大きな絵を描こうと意識した。鉛筆を自由に使えるようにいつも鉛筆を持っていました。

●デッサンの練習を線から●
紙の端っこに軽く持ってサァーと一本調子に上下上下って書きましょう。実はこれが一番大事です。腕を動かして、小手先でなく。子どもにも本当は壁中に貼った大きな紙に描かせたほうがいいですね。走り回って書くような。
今から8年くらい前に表紙になりました。自分の絵がちょこっとどこかに載るというのは夢でしたから嬉しかったですね。
町が好きだから町風景の絵がどこかの挿絵に取り上げられるとうれしいですね。海外に行くこともあって楽しいです。
オランダに、教室の人たちと行ったとき、とても寒くて描くのを辞めようかと思うくらい。で、小さな紙にスケッチ。一緒に行った女性陣は楽しそうに写真を撮っていた。そこに加わろうかと思ったけどがんばれがんばれと描きました。食事の後バスが出るまでの間に部屋で色をつけて。見ただけと描くとは違いますから、もう八年になるけれど自分の感覚の中にしっかりと生きている。
人間って条件のいいときより、条件の悪いときの作品に思い入れがありますね。
〜〜休憩〜〜
■実技の時間

ではせっかくですから、鉛筆で骨組みを描いてみたいと思います。長四角を描いて、その真ん中に線を引く、そう羊羹を分けるときのようでいいですよ。屋根の三角をつけますね。高いところと高いところを結びます。家も実はこのように作ってあるんですね。そして壁になる部分に色をつけます。実際の家と一緒ですね。窓を同じようなラインで入れて。出来上がりますね。
家を描く時は、軒下の角度さえしっかりと分かれば家が描けます。正面から見たら正三角形ですね。建物の正面に鉛筆を立ててみて角度を大体に知ればいいですね。日本家屋の窓は大体同じような大きさでは面白くないですね。でもそれが日本の景色ですから。外国は細長い窓や丸い窓が同じ家にあって楽しいですね。
絵は一歩一歩です。世界で三本の指にはいろう何て思わない限り描けます。僕は地元の人に喜んでもらえる作品を描いていきたいと思っています。

※菅野さんに言われたとおりに描いていくと、とっても『絵になる』家が出来上がりました。不思議!
帽子をかぶって、絵になる風景を捜していると警察に通報されてパトカーがやってきた、などのエピソードも織り込まれた講演はあっという間に終了。下町言葉の歯切れの良さが印象的でした。
菅野さんの絵は『インテリア・アート・アヴァンス』(江東区富岡1-24-5 3630-4321)に常設展示されています。
(2003年1月9日収録)要約文責:室井朝子