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第8回

第一話 落葉なき椎……麟太郎(りんたろう)誕生のこと
(八)

 忘れもしねえ、勝家の養子となった翌年、文化六(一八〇九)年は天候不順の年であったヨ。
 正月は元日から月末まで、連日のように大風が江戸中を吹き荒れ、雨は一滴も降らないまま、二月になるような始末。六月になってから桜が満開になるなど、季節が妙な具合に移ってゆき、八月を迎えた。例年なら、秋の気配が濃くなり、木々も色づきの盛りを迎えるという、この時期、まだ気温が高く、とても秋風に虫の音を聞くなどというような風情は感じられなかった。
 そんなある日、
「お信や、頭のこの辺が妙にズキズキする。これはきっと雷が来るよ。
 干し物を取り込んでおくよう、下女に言っておくれでないか」
 お祖母さまは、梅干し膏薬をこめかみに張ると、一間に蚊帳を吊り出した。
 お信は、下女を探したが、母屋の男谷家にいっているらしく、その辺りには姿が見えない。
 その間も、恐ろしげな雲が、北からどんどんと広がりだし、空の半ばを覆い尽くす勢い。江戸の人びとが〈板東太郎〉と言い習わしている雲だ。ゴロゴロという音も、遠くから聞こえだす。
 お祖母さまは、もうそうなると居ても立ってもいらない。完全には吊れていない青蚊帳にもぐり込むと、
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」
お題目を唱えだした。
 稲光とともに、大粒の雨が降ってくる。
 瓦を叩く音が急調子になると、表は土砂降りの雨。
 その中をお信は、か細い手で、独り干し物を取り込み始めた。
 オイラが、蕗(ふき)の葉っぱを頭に乗せて、駆け足で戻ってきたのは、そんな中だった。
 お信のようすを見ると、細腕の手には余りそうで、手助けしてやらざあなるめえ、と誰だって思うはずだ。そこでオイラも手を貸して一心に作業を始めた。やがて、何んとか片が付き、台所でのお信のようすを見ると、頭の先から足の爪先までずぶ濡れだ。懐から、洟(はな)や土埃で汚れ放題の手拭いを取り出すと、禿髪(かむろがみ)を乱暴な手つきで拭ってやりだした。
 その時だヨ、オイラの耳に、奥の一間からのお題目の声が入ったのは。渡した手拭いで、身体を拭っているお信をその場に残すと、お題目の聞こえる座敷に入った。お婆さまは両手を頭の上で合わせ、蚊帳の中で一心にお題目を唱えている。
 オイラは、この婆アと,最前のお信の姿とを引き比べたら、頭に血が上った。
「この婆ア、お信を大雨の中にほったらかしにしやがって、てめえだけは蚊帳の中で寝惚けていやがったのか!
 お信はな、この大雷の中、ぶるぶる震えながら濡れ鼠で、干し物を取り込んでいたんだ。
 もう勘弁ならねえ、出てきやがれ、この業突婆ア、因業婆ア!
 フン縛って川ん中へ叩っ込んでやる! 
 さあ、出てきやがれ!」
 ちょうど、オイラがお祖母さまの襟首をつかんで、蚊帳から引きづり出そうとしたところだ、それを聞きつけた父上が飛び込んできたのは。
「年端もいかぬのに、祖母さまに向かってなんという悪口雑言!
 こんなことでは、先が思いやられるわ。
 おのれのような奴は、オレが手に掛かって死ぬるがよい!」
 脇差しを抜くと、斬りかかってきた。
 ピカッという稲光が、脇差しに反射する。薄暗い一間に、そこだけが面明かりを浴びたようで、オイラも生まれて初めて怖いと思った。
「だ、だっ、旦那様、お待ちになってくださいまし!」
 利平が飛び込んで来て、父上の両腕を後ろからはがい締めにし、涙声で訴えてくれたのだ。
「お怒りは、ごもっとも。なれど、この利平が、小吉さまにはとくと言ってお聞かせ申しますので、今日のところはご勘弁を」
 この隙に、オイラは表へ裸足で飛び出していった。足元に、小さな水飛沫(しぶき)が跳ね上がるのが気持ちいい。目顔で側にいたお信を促すと、オイラの掌をしっかりと握り、こちらも裸足で一緒になって駆け出した。
続く

2005/1/12

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