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第三話 片葉の葦……勝麟太郎(りんたろう)「忍び」になりそこなうこと
(五)
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二人は、下谷に住むという絵師を訪れることにした。
名は「孔雀長屋」と優雅だが、貧しいその日暮らしの人びとが集まるので有名なところだ。
本所から両国橋を渡り、お蔵前通りを浅草の観音さままで出る。広小路を上野山下に向かって、小半里いったところで、路地に入る。
いくら貧しい暮らしとはいえ、麟太郎は御家人の子。このような庶民が住む裏長屋を見るのは初めてだった。
上野山下に抜ける門跡前の表通りから路地に入って、最初に感覚を刺激したのは、その臭いだった。総後架という共同便所の糞尿の臭い、長屋内の通路に張りめぐらされたドブからの臭い、想像もつかないようなものを煮炊きする臭いなどが、一緒になって鼻を刺激する。
麟太郎は昼飯を戻しそうになったが、栄次郎は平気な顔をしている。
いくらなんでも吐くのはみっともないと思い、しばらく我慢している内に、幸いに鼻が先に慣れてくれた。
長屋の入口には木戸があり、庇の下に住人の看板や貼り紙が表札代わりに掛けてある。
灸すえ所・尺八指南・高砂ばば(産婆)・大峯山の小先達・本道外科・易者、などなど。けれども、目指す相手の「絵師」というものは見当たらない。きっと、知り人しか相手にしていないのだろう。
「ああ、そこのドブ板には気をつけて。木が腐り始めているから、足の力を入れると踏み抜くかもしれない……」
栄次郎は、この長屋のことはドブ板に至るまで知っていた。
ドブ板を踏んで五軒目、表障子に達磨の絵。墨一色で一筆描きのように簡単に描いてあるから、落書きのようにしか見えないが、よく見るとなかなか達者な筆遣い。
その障子に向かって、
「辰っつあん、いるかい?」
と声を掛けた。九尺二間の長屋、大声を出さなくとも用は通じる。障子の向こうで大欠伸が聞こえると、ガラッと門口を開けて、大入道のような男が出てきた。
毛の薄くなった頭はボサボサ髪で、だらしなく浴衣のような一重ものを身に巻き付けている。それよりなにより、身体の大きいのが第一の特徴だ。六尺近い身の丈だろう。
「ああ、栄次郎さんか。今度は何を描けっていうんだい? 絵組み(構図を表した下絵)のあるのは嫌だよ。栄次郎さん見たように、丁寧に絵組みまで描かれちゃあ、オレのやることがなくなっちまう」
どうやら栄次郎は、頻繁に、この男に絵を頼んでいるらしい。
「いや、今度は絵組みはなしだ。絵柄は……」
最前、麟太郎に語った『片葉の葦』の話を繰り返し、
「じゃあ、一刻(約二時間)ほど、暇を潰してくるから、それまでに頼んだよ」
ポンと一つ絵師の肩を叩いた。
麟太郎と栄次郎は、観音さまの境内の掛茶屋で、時間を潰した。
「あいつは、辰五郎といって、国芳の門人だ。師匠によく似て、武者絵が得意なんだが、今のとこは何でもこなす。器用なだけあって、小遣い稼ぎにいろいろと手を出すから、かえって武者絵一本に絞れないのが、まずい所でね。
もっとも、こっちはそれを便利に使っているんだから、あいつにとっちゃあ迷惑なことをしているようなものだ」
と、絵師の内情を漏らした。
「麟さんは、ここで待ってなよ、絵を取ってくるから」
言い置いて小半刻。
「済まない、待たせたな。辰の野郎、さっさと描きゃあいいのに、絵柄を悩んでいたから、どやしつけて描かせてきたよ」
見せてくれた絵は、男が片手に出刃包丁を持ち、今にも女を殺そうとしている絵柄。男の身体の動きには殺気が、反対に、女の静止した身体には諦めと悲しみが表れている。
「なかなか、上手な絵師ですね……」
「線の勢いが、版木に彫られた時に、巧く生きてくりゃあいんだが」
これから、彫り師と刷り師のところに行くという栄次郎と別れた麟太郎は、絵のことよりも、生まれて初めて見た裏長屋の光景に心奪われていた。
「棒手振り、日雇い、大道商人、下職人なんか、こういうとこの店子を本気で怒らせると、お上も手がおえなくなるんだぜ。大坂の大塩の乱なんかも、こんなとこの人が加わったというからな」
他に漏れないように、小声で語った栄次郎のことばが耳にこびりついている麟太郎であった。
『片葉の葦』の刷り物は、噂を呼んで、売れに売れた。
とはいっても、一枚が十文だから、全体の売上はたいした金額にはならない。ただ、まとまったお足が手に入ったことが、唯一喜ぶべき点か。 |
続く |
2005/5/25 |
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