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第26回

第三話 片葉の葦……勝麟太郎(りんたろう)「忍び」になりそこなうこと
(六)

「『片葉の葦』のわけを、栄次郎さんは、ならず者と娘の因縁話にして、小金を儲けた。彼の才能は多岐に渡っていたが、これなんかは、今日でいうところのヂアアナリスト顔まけじゃあないかネ。
 どうだい、お前の会社でも雇ってみたくなるだろうヨ」
 博文館で働かせるかどうかは別にして、乙羽は、栄次郎に多大の興味をもった。
「両国橋を架け代えるときに埋め立てられた堀が、大川側の入口は広いが、どん詰まりになるにしたがって狭くなるんで、『片端堀』と呼んでいたそうだネ。
 その堀に生えてる葦だから『片端の葦』、それに段々尾ひれがついて、『片葉の葦』の噂が生まれたっていうのを、亀沢町の伯父から聞いたことがあった。オレが小さい頃、もうすでにその堀はなかったヨ」
 と書き物も本も見ずに、すらすらと語った。
(七十代にしては記憶のいいことよ)
 乙羽は、思わずメモを取る手を止め、白髪と真っ白な顎ひげに縁取られた海舟の顔をながめた。
(もっとも、歳が歳だけに、記憶がごっちゃになることがあるのも止むをえまい。この間聞いた話だと……)
 それは半年ほど前のこと、雑誌「太陽」に載せるべく、江戸の文学者についての話を聞きにきたときのことだ。
「ソウサ、おれがまだ六歳か七歳ごろのことだ。彦四郎伯父のとこで、蜀山人によく会ったものだ。顔の真っ赤な、面白い人だと子ども心にも思った」
 という貴重な談話が取れた。
 早速、印刷に回し掲載したはいいが、よくよく調べてみると、蜀山人の死んだのは文政六年の四月、海舟の生まれたのは同年の一月だった! 掲載を取り止めようにも、もう雑誌は読者の手に渡っている。
「知らん顔をしたが、あの時ほど恥ずかしかったことはなかった」
 とは乙羽の後の述懐。
 もっとも、『流芳遺墨』『海軍提要』などを出版し、海舟をよく知っている岳父に言わせると、
「それは、乙羽が海舟先生にかつがれたんだ」
 ということではあるが。
 乙羽の気持ちを知るよしもなく、海舟の話は続く。
「ところが、そんなものを売り出したってことが、どこからか、オヤジの耳に入ったから大変だ……」
                   *
 刷り物の売上に喜んだのも束の間、今度の商売が小吉の耳に入ったから大変だ。
 いくら「麟太郎さんのこれからの修行の補いに」と言っても、聞く耳を持たない。例によって、
「平山先生に面倒を見ろと頼まれちゃあいるが、お前に暮らしの面倒を見てもらえとは言われちゃあいねえぞ!」
 とのお小言だ。
 もっとも、その時、小吉には無尽を拵えてくれる仲間がいて、まとまった金が入ってくる予定があったというから、必ずしも痩せ我慢を貫いたとはいえない。
 とはいえ、今度のことが元となり、
「麟の奴も、大分色気づいてきたようだから、栄次郎といっしょにしておいたんじゃあ、いいことばかりじゃあなくて、悪さをも覚えかねねえ」
 と、自分のことを棚に上げて、男谷精一郎道場で剣術の修行に専念させることになった。
                   *
「十六、七のときから、オレは、亀沢町の叔父のとこで、剣術の修行をさせられることになった。島田虎之助先生についたのは、その後のことだ。まあ、剣術を究めれば、一方からでも葦に光が当たると思ったってこともある。
 そんな剣術修行の毎日に、風穴を開けてくれたのも、栄次郎さんだった。ちょうど、オヤジが押込めを食らっていたころだ。
 浅草新堀の島田道場の内弟子をしていたオレの前に、ヒョックラ姿を現すと、
『徳丸ケ原で高島秋帆というお人が、西洋式の大砲と兵隊の調練をするから、一緒に見にいこう』
 という。
 マア、調練には驚いたネエ。大砲はもちろんだが、軍勢の動きが、今までとはまったく違う。秋帆の命令一下、縦一列になり横一列になり、自由自在に進退する。
 これが、オレが蘭学をやろうと思った最初サネ。
 後のことは、お前もよく知ってのとおりだ。蘭学をやることで、小十人組・講武所砲術方教授・大番組へと順調に出世していった。
 やっと、オレにも世間並の日が当たり始めたのサ」
 この話になって、初めて海舟の表情に明るさが見られた。
「そして、咸臨丸でアメリカへ行く、というわけですね」
 旧幕時代の一つのハイライトになる事件だ。
(きっと、面白い話が聞けるだろう)
 乙羽は確信に近いものを持っていた。
続く

2005/6/1

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