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第28回

第三話 片葉の葦……勝麟太郎(りんたろう)「忍び」になりそこなうこと
(八)

「だから、オレたちには、あくまで一人の水夫としてしか分からない。どうやって、咸臨丸に紛れ込んだのか……。サンフランシスコのポリスには、病気で死にましたと届けるしかなった。
 ああ、遺体は、海の見える岡の上に、丁重に埋めてやったヨ、塩飽島の水夫・富蔵としてネ。これも船将の役目の一つだ」
 海舟は、さすがに話疲れたように、肩を落としている。それとも、何か思うところでもあるのか……。
「お話によると、栄次郎さんという方は、ずいぶん先生の人生に影響を与えたんですね。
 その方、今はどうしておられるんです?」
「フフッ、お前の後ろにいるヨ」
 乙羽はギクッとして、後ろを振り向いた。けれども、そこには壁に掛かった油絵しか目につかない。
「びっくりさせんでくださいよ。だれもいないじゃあありませんか」
「その写真の男だよ」
 改めて壁を見ると、大きな油絵の傍らに、小さな写真がひっそりと掛かっていた。写真には、レンズをじっと見つめる講武所髷のりりしい侍の姿が。
「平山先生に忍びの手ほどきを受けただけあって、写真を撮られるのを嫌がって、長崎で撮ったこれ一枚しか残っちゃあいないのだ」
 珍しく海舟の声には、しんみりしたものが滲み出ている。
「まあ、おれの代わりになって死んだようなものだから……」
「それで、お墓は、どちらに?」
「線香の一本も手向けてくれるっていうのかエ。
 それなら谷中の養珠院を尋ねておくれヨ」
                   *
 それからしばらくして、乙羽は、養珠院を訪れてみた。なぜか、栄次郎のことが頭の片隅に引っ掛かってしかたがないからだ。
 その日は、空はすっきりと晴れ渡っているものの、木枯らしは激しく吹き荒れていた。
 墓地は、さほど広くない。しかし、音羽がいくら探しても、それらしき墓は見当たらなかった。
(さては、またしても海舟先生に引っかけられたか!)
 と思い、苦笑しながら墓所を出ようとしたが、視界の片隅に人の動きがあった。どうやら住職らしい。念のために尋ねてみようと、その方へ歩を進めた。
「もう何十年とこの寺におりますが、そのような方のことは聞いた事がございませんなあ。いえ、もちろん海舟先生は、お名前だけは存じあげておりますが」
(はてさて、本当に海舟先生の戯れ言か……)
 日本橋本町の社へ戻るべく、足を出口に向けた乙羽の脳裏に、
(あの老僧、どこかで見たことがある……。
 ……、そうだ、海舟書屋の写真!
 栄次郎じゃあないか!)
 突然、電光のように記憶が閃いた。
 乙羽は、急ぎ振り向いた。
 僧侶と話をしてから、まだ一分も経っていない。しかし、その視界には、もう誰もいない。
 墓石と墓石との間には、風が渦を巻き、ただ一枚の木の葉だけが立ち去りがたいように、いつまでもいつまでも円を描いているばかり。

2005/6/15

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