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第31回

第四話 消えずの行灯……小吉、高野長英を匿うこと
(三)

 けれども、栄次郎の危惧は当たった。
 小吉の想像以上に、鳥居の打つ手は陰険かつ巧妙なものだった。
 言わば〈密偵政治〉。配下の御小人目付を使うのはもちろんのこと、下級の幕臣をも裏切らせて密偵にし、情報を手に入れる。
 やがて、華山やその仲間たちの周囲にも、鳥居配下の者の目が光り始めたと、栄次郎が知らせてくれた。また、華山のことを心配する別の筋からも、同様の話が入ってくる。
「こいつァあ、うかうかしちゃあいられねえ。
 ……そうだ。下総の先の方にゃあ、以前居候させてた奴らが大勢いる。いざという時は、あいつらの所を頼って……。
 お信、支度だ、支度!
 オイラァあ、しばらく旅へ出るぜ!」
                   
 周囲の者へは、
「麟太郎の剣術修行成就祈願のため、香取・鹿島へ代参に行く」
 と言い広めながら、下総への連絡を取ったりと、旅支度を調えている最中……。
「渡辺氏のご紹介で……」
 本所入江町の勝宅へ現れたのは、頭を剃りこぼった男。
 坊主頭なのは医者だからと、すぐに知れた。
 顎の尖った面長の顔には、大きな鼻がそびえ立ち、奥まった細い目には、茶色がかった瞳が炯々とした光を放っている。色白の額には、そばかすらしきものが点々と。
 唇の厚い大きな口からは、やや鼻にかかったくぐもった声がした。
 口調からは、うっすらと奥州訛りを聞き取ることができる。
「高野長英と申す者。渡辺氏とは〈尚歯会〉でのお仲間で……」
 時機が時機だけに、
(鳥居の密偵ではあるまいか)
 と疑ったが、渡された手紙は、まさに華山の直筆。それだけではない。話すことばの端々からは、深い学識と滔々たる情熱とが窺える。
 この年三十八歳の小吉、人を見る目には自信がある。まさしく、
〈本物〉
と判定した。
 長英が語るには、
〈麹町貝塚の家塾周辺にも、近頃、奉行所の手の者らしき男たちが、うろついている。そのため、根を詰めて行いたい翻訳にも、なかなか集中できない。ついては、小吉に、翻訳するのに適当な場所を紹介してほしい〉
 というのであった。
「長英、小生の無二の学問仲間故、彼の者を小生だとお思いなされ候いて、ご手配の程、深くお願い奉り候」
 なる華山の文面にほだされ、旅支度の時間を割き、手配を行った小吉である。
 本所も町場をちょっと出外れた場所に、小吉に義理のある岡野江雪の隠居所がおあつらえ向きに空いていた。長英をそこへ匿ってから、小吉は飛び立つように下総へ旅立った。
続く

2005/7/6

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