下町探偵団ロゴ万談ロゴ下町探偵団ハンコ
東京下町Sエリアに関連のある掲示板、コラム・エッセイなどのページ
 トップぶらりグルメくらしイベント交通万談 リンク 

第34回

第四話 消えずの行灯……小吉、高野長英を匿うこと
(六)

 やがて、事態は急変する。
 五月十四日、華山は北町奉行所に召還された。その知らせは、栄次郎から小吉を通じて、すぐ長英の耳にも達した。そして、十七日には小関三英が自害したことも。
 蘭学弾圧の疑獄事件〈蛮社の獄〉の発端である。
「この分じゃあ、お互いに生命がいくつあっても、思っていることの万分の一も実現できやしないな、儀右衛門さん」
「あたしは、蒸気船さえ造れれば、それだけで思い残すことはないです」
「蒸気船か……。蒸気船はいいな。早く造っておくれよ。私はそれに乗って余所の国に行きたい!
 この国のように、四方から迫ってくる壁に押しつぶされそうな所じゃあなくて、もっと広い広い所へ……」
 呻くように長英が言った。
「よし、〈無尽灯〉の完成も、あと少しだ。
 これだけでもやってしまおう。私も手伝うよ、ねえ、儀右衛門さん」
 長英は、気を取り直すように、そう話しかけた。
                   
 十八日、とうとう圧搾空気を応用した〈無尽灯〉が完成した。
「長英さん、お逃げなさいよ。〈無尽灯〉も出来上がったっていうじゃあないですかい。これがいい機会だ」
 小吉は、ことばを尽くして、逃走を勧める。
「所の噂には上っちゃあいるが、長英さんのことは、まだ奉行所も知らないはずだ。ここから旅立てば、何とか逃げることもできよう。
 オイラは、渡辺さんのために、下総での隠れ場所の手配をしてきた。長英さんも、そこを頼っていけば、何とか逃げ切ることもできようよ。
 長英さん、お逃げなさい」
 懇篤な逃走の勧めに、心は揺れた。
(無尽灯は完成したが、これは儀右衛門のしごとだ。自分のしごとは、あくまでこの本を翻訳すること。まだ、とっかりにたどり着いただけで、捕まってしまいたくない……。
 ……でも、華山を見捨てて、オレだけが逃げるのか?
 --逃げ隠れするのは、〈シーボルト事件〉の時だけで沢山だ!
 ……翻訳は牢の中でも、できるんじゃあないのか?
 --できる。まさか、死刑になどなるはずはない、悪くても重追放。
 ……よし、小吉さんを初め、親切にしてくれた人たちを巻き添えにしないためには、私が自首するしかない!)
「牢内でも翻訳ができる」という長英の期待は、甘いものだったが、今はまだ、それが可能なように思えていた。
「小吉さん、そう言ってくれるのはありがたいがね、ここで逃げだしたんじゃあ、恥の上塗りだ。三英が死んだとあっちゃあ、華山一人だけに罪をおっかぶせるわけにもいかないでしょうよ。
 今夜ここを立って、その足で奉行所へ自首しようと思います。止めないでください。
 頼みます……」
 拝むようにして、決意を告げる長英であった。
                   
「儀右衛門さん、私は、あなたが造った蒸気船に乗るまでは死なないよ!
 小吉さん、世話になった。私は三英なんかとは違うよ。牢内だろうが、孤島だろうが、生きて生きて生き抜いてみせる!
 坊主、達者でいろよ。どんな邪魔が入ろうが、これからは必ず蘭学の時代が来るぜ!」
                   *
「……と言って、撫でてくれた感触が、今だに頭のてっぺんに残っているようだ……」
 海舟は遠くを眺めるような目をした。
                   *
「栄次郎さん、それじゃあ道案内を頼む。ここで捕まったんじゃあ、皆に迷惑がかかる……」
 一度も振り返ることなしに、長英の姿は、江戸の深い闇に溶け込むように消えていった。
                   *
「その年の十二月には、もう判決だ……」
「確か、華山先生が国元での押込め、長英先生が永牢(終身刑)になったんでしたね」
 乙羽は記憶をまさぐった。
「そうさ、でも『牢内でも翻訳ができる』というのが甘い認識だったってことは、長英先生も、北町奉行所に自首して、すぐに分かっただろう。何しろ、持ってるものはすべて証拠品として、取り上げられたのだから」
「原書や草稿は、返してはくれなかったんですか?」
 乙羽の疑問は募るばかりだ。
「あの〈妖怪〉が、そんなことを許してくれるわけがない。目付とはいえ真の実力者、〈水野の三羽烏〉の第一人者だってことは、誰もが知っている。
 この疑獄事件が、もう一年遅く起きたら、遠山景元が北町奉行になっていたから、分からんがネ」
 「なるほど。
 それで、長英先生が、そんなにこだわっていたのは、何の翻訳だったんです?」
「あの有名な洋式兵学書『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』、だそうだ。挿絵を見せられて、そうだと言っていた。もっとも、オヤジたちはアベセの〈ア〉の字も知らんから、当てにはならないがネ。
 ああ、オヤジといえば、長英先生を匿ったのが原因で、虎の門の保科家に預かり・押込めになった。それだけで処罰が済んだのは、幸いといえば幸いだった。何しろオヤジは顔だけは広いから、いろいろな筋からの運動もあったんだろう……。
 オレかい。オレは名目上は勝家の当主だったが、直接、長英先生のことには関与していないということで、〈お目こぼし〉というわけサ」
 と言って、うっすらと笑った海舟の顔には、「言えない事情も、まだまだあるサ」と書いてあるような気がする乙羽であった。
「それで、オレは島田先生の元で、また剣術修行の毎日サ。
 そんな中で華山先生の自刃を聞き、世の中が息苦しくなってきていた矢先、久しぶりに栄次郎さんが、ひょっくり現れた。
『〈徳丸ケ原〉で面白いことがあるから見に行かないか』というお誘いだ」
続く

2005/7/27

江東区、墨田区、中央区、台東区のネットワークサイト