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第36回

第四話 消えずの行灯……小吉、高野長英を匿うこと
(八)

 三門の十六ポンド・モルチール砲が、一斉に初弾を撃ち放った。
 筒先に輝いた砲火にやや遅れて、雷が落ちたような圧倒的な音量が見物人に達した。
「ウォー!」
 何とも知れぬどよめきが上がる。先程の揶揄などは、どこかに吹っ飛ばしてしまうほどの物理的な力!
 後ろの木立から、何百羽という鳥が朝空に飛び立つ。
 バサバサッという羽音は、人びとの砲音に麻痺した鼓膜には聞こえない。
 試射場の小流れ寄りに、三か所の着弾。
 着発信管の小爆発。
 ボンベン弾(榴弾)の炸薬が破裂する。
 発砲音より、やや鈍い光、音、そして風。
 原の土や草の切れっ端が、煙とともに吹き飛ばされる。
 風が、旗を、幕舎を、幔幕を、そして人びとを襲う。
 麟太郎も、皆と同じように両手で頭を庇った。
 バタバタバタッと、いつまでも袴の裾が翻る。
(これが、新しい戦のやりかたなんだ!)
 新鮮な解放感が、朝の大空に広がっていく。
(島田先生のも精一郎小父のも、剣術は、この戦では何の役にも立ちゃあしない!)
 そのような思いを余所に、やや聞こえるようになった耳に、無遠慮な大声が届いた。
「秋帆は、まだまだ修行が足りんな!
 ほれ、遠いものは一町余も、近くても十数間は弾着が〈越〉(目標をオーバーすること)になっておる!」
 その声が聞こえる限りの人びとは、そちらに目を向けた。誰の視線にも、やや非難の色が込められていた。先程の揶揄などはどこへやら、誰もが秋帆贔屓になっている。
 非難の視線の先には、緞子の羽織に古代模様の袴という派手な恰好の男がいた。
 姿にも増して「異相」としか言いようがない顔つきであった。
 まず目立つのがヒゲだ。尖った顎には山羊鬚、鼻の下にはドジョウのような髭。そのドジョウ髭を、細長い指で常にひねくっている。
 辺りを睥睨するかのような異様な光を放った奥目に、人びとは思わず顔を地面に向けた。
 その中で、麟太郎と栄次郎だけは、視線を逸らさない。
「ああ、佐久間修理だ。
 麟さん、信州松代藩の佐久間象山だよ、今は神田お玉ケ池で『象山書院』をやってる」
 麟太郎も、名前だけは知っている。
(なんでも、阿蘭陀語をたった二か月で習得したっていう。この男なら、そんな凄いこともやりかねない、と思わせる。
 それにしても、オレが阿蘭陀語を使えるようになるのは、いつのことか……)
                   *
「後で、妹(お順)を、この男に嫁がせることになるとは、もちろん知りやあしない。まあ、その時は、凄いと思ったが、何て傲岸な男だろう、ってのが正直な感想だ」
「その時から、蘭学を始められたのですね?」
「いや、そう簡単にはいきません。まだまだ剣術修行の身、思うことは思っても、両方は一遍にできやしない」
「それでは、いつごろから……?」
「乙羽クン、自分のことを考えてみなさい。キミが文学に志した時期と、修行を始めた時期は、ハッキリしているかい?」
 一本取られたと、乙羽は頭をゴリゴリと掻いた。
「まあ、モノの本にする時には、翌天保十三年十月、秋帆先生の逮捕を知ってと書いておきなさい。
 オレもへそ曲がりだから、長英先生が自首する、華山先生が自殺する、秋帆先生が逮捕される、と蘭学界が壊滅に近い情勢になったから、一つオレがやってやろうじゃあないか、という気にもなったんだ。『鳥居甲斐守、勝麟太郎を蘭学に走らす』といったとこかネ」
(これも先生お得意の〈おとぼけ〉か)と思ったが、口調にはいくぶんの真剣味がないわけではない。
続く

2005/8/10

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