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第四話 消えずの行灯……小吉、高野長英を匿うこと
(九)
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「話を長英先生のことに戻しますが……」
と言って、手元のメモ書きを覗き込んで尋ねる。
「長英先生は、その後、小伝馬町の獄中で、翻訳こそできないものの、『蛮社遭厄小記』などをお書きになる……」
「そうさね、牢内ではお医者で大事にされ、牢名主にまでなったのだから、その程度の書き物は許されていたんでしょう」
「それでは、なぜ、他の囚人に火付けまでさせて、脱走したんでしょう? その理由は、お分りですか?」
「牢に入ってからは、迷惑がかかっちゃあいけないということで、勝の家には何の便りもなかったから、詳しいことは分からないが……。
推測でもいいかエ?」
「ええ、もちろん」とでもいうように、音羽は大きく首を振った。
「例の翻訳サ。どうしても、あいつを翻訳し終わらなけりゃあ、死んでも死に切れなかったんだろうネ。
日本全国を逃げ回りながら、原書を手に入れ、とうとう翻訳をやってのけた。それも達意の文章でネ。
それに比べりゃあ、オレの『ヅーフ・ハルマ』(蘭和辞書)の書写なんてのは、大したことがない。こっちは、あるものを丸写しにしただけ。手間を掛ければ、誰にでもできるしごとだ」
「確か、長英先生は、捕まりそうになって自害される前に、海舟先生の元を訪れられたとか……」
「オレのとこじゃあない、オヤジのとこだ。もっとも、その一か月ほど前に、オヤジは死んでしまっていたがネ……」
*
青山百人町に住むという医者が、赤坂田町の勝の元を訪れたのは、嘉永三年九月のある夜のことだった。
(そっちの方には、知り合いはいねえはずだがなあ)
と不審に思いながらも、麟太郎が玄関先に出てみると……。
顔にはひどい火傷の跡があるが、その下から透き出て見えるのは、忘れもしない顔。
「高野ちょう……」
「いや、青山の医者、沢三伯。お初にお目にかかります」
「長英」と言いかけたのを遮って、こう名乗った。
人に聞かれては、まずい話も多々ある。手を取るようにして急ぎ一間に招じ入れた。とは言っても相変わらずの貧乏暮らし。畳といえば破れたのが三枚ばかりしかないし、茶の一杯も出せない。
白湯を前にして、
「小吉さんは、ご同居ではないので……?」
長英は、まだ小吉の死を知らなかった。
「先月の四日に亡くなった」
と答えると、長英は、薪にしてしまって一枚の板もない勝家の天井を仰いだ。その目に浮かんだものを、そうやって抑えているようだ。
しばらくは、縁の下からの虫の音だけが、座を占めた。
やっと、麟太郎の方を向くと、
「それでは、これを仏前にお供えください」
と、一冊の書を差し出した。
書の表書きには、『軍法不審』とある。荻生徂徠の著を筆写したものだ。長英自身の文による跋が、巻頭に記されている。
*
「それが、この本なんだがネ……」
と言いながら、海舟は手文庫から大事そうに一冊の古びた書を取り出した。
「右十条の兵道疑問は……」と始まる跋は、百数十字の短いものだが、乙羽がざっと目を通しても、なぜ小吉に渡そうとしたのかは、分からなかった。
その疑問を先取りしたかのように、
「オレにも、理由は分からないがね、『それ戦法に定法なし』といった辺りが、オヤジのやり口を彷彿とさせることはさせるヨ。
それから、ほんの一月後のことだ」 |
続く |
2005/8/17 |
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