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第50回

第六話 足洗え屋敷……海舟、謎の印籠を所持すること(前編)
(二)

「先生、あやつ見かけない男ですが……」
「ああ、あれは本庄辰輔といって、去年、内弟子になった。肥前長崎の出だ。
 あまり筋はよくないが、熱心に修行はしている」
 小吉は、直心影流(じきしんかげりゅう)という同門の誼(よしみ)で、月に一度は、上野車坂にある井上伝兵衛道場に稽古をつけにやってくることになっている。
(本庄とかいう奴、筋が良くないだけじゃあなくて、ひた押しに押してくる気力が感じられねえ)
 このような男、小吉はどうも好きにはなれない。
                   *
 --江戸では井上道場という所に、内弟子として入った。
 親父の知り合い、本石町三丁目長崎屋の口利きだ。阿蘭陀人が江戸参府するときの泊まり場所として有名な、あの長崎屋だ。
 内弟子というのは、最初の内は、下男・女中とやることに変わりがない。朝は日の出前の七つに起き出し、水汲み、飯炊き、拭き掃除。食事は、諸先輩の給仕が終わってから残り物で、そそくさと済ませるのは当たり前。
 長崎では乳母日傘(おんばひがさ)で育ったオレだ。長崎をおん出られたという解放感もどこへやら。たちまち音を上げて、貧乏侍の同輩・小柳七之助に銭を渡して代わりをしてもらい、手を抜くことを覚えた。銭さえあれば楽ができるのは、江戸も長崎も変わりがない。
 朝の稽古が始める前に、もう一度道場の拭き掃除をする。稽古といっても竹刀などは持たせてはくれない。〈見取り稽古〉という見学だ。
「稽古を見て、先輩たちから技を盗め」
 というのだが、オレは、小さい時分から稽古をしているわけじゃあないから、コツが分からない。親兄弟から簡単な型ぐらいは、すでに習っている小柳たちとは、そこはまったく違う。
 それでも、半年ほど修行すると、竹刀を持たせ、型をつけてはくれる。
「何度でも型を繰り返し、身体に覚えさせろ」
 というのだ。
 型の稽古でも「熱心だ」と言われることは、たまにあっても、「筋がいい」などと褒められたことは一度もない。普通なら一年で〈霊剣〉という格になるのだが、オレはまだ貰っていない。
 勝などという奴は、進歩の遅いオレをチラと見て、鼻でせせら笑うような素振りをする。デカイ面をして道場に現れると、そこいらの若い者を見つけちゃあ、稽古と称しては痛めつけて喜んでいるような野郎だ。でも、腕が立つのは認めざるを得ないだろう。
 オレとおない歳だそうだが、九つの時から武術の修行にかかっているというから、腕がずいぶん違っても当たり前だ--。
                   *
「おめえら、内弟子修行じゃあ、碌なものも食っちゃあいまい。オイラの奢りだ、〈雁鍋〉に行って鳥でもやっつけようや!
 ねえ、先生、いいでしょう?」
 伝兵衛も、小吉の振る舞いには苦笑して頷くしかない。
 これが、内弟子相手にきつい稽古をした時の習慣になっている。
 小吉は、内弟子になったことはないが、子ども時分の修行で、先輩にさんざっぱらいびられたことがある。そんなこともあり、後輩の弟子たちには気をつけてやっている。やはり苦労人なのだ。
 一人、仲間から離れているような辰輔にも、声を掛けて誘った。
「おい、バッテン、おめえも行かねえか?」
                   *
 --勝という奴は、どこまで要領がいいんだろう。やはり、この辺が江戸者のずるさというやつか。時々、オレたち内弟子に奢って、人気取りをしようというのだ。小柳なんぞ、奴の本心など知らずに、食い物を腹一杯食えるのが嬉しくて、ホイホイとくっついていく。
 オレにも意地がある。あんな奴の奢りなど、いくら腹が減っても食ってなどやるものか--。
                   *
「いいえ、私はまだすることがありますから」
 切り口上での返事に、小吉はやや鼻白んだようだが、すぐに皆を誘って表に出ていった。
(好きになれないといったって、やはり内弟子。みんなと同じに扱ってやろうと誘ってるのに、なんて愛想のねえ野郎なんだ)
 道場を出る時に、そう思ったが、上野山下への道々、小柳たち内弟子と馬鹿っ話をしているうちに、その男のことは、忘れるともなしに忘れた。
                   *
 --道場のみんなが、オレのことを「バッテン」と呼ぶのは、「けれども」「しかし」という意味で、国の訛りがよく出るからだと思っていた。「ばってん」、そうではないことに今日、初めて気が付いた。
 オレにしては、迂闊な話だ。
 江戸では、ペケ(×)のことを、「バッテン」と言う。
 オレが「バッテン」と呼ばれているのは、剣術の筋が悪く、見込みがないからなのだ!
 勝の奴、この前は、そんなことは十分承知で、皆の前でオレをそう呼びやがった!
続く

2005/11/16

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