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第52回

第六話 足洗え屋敷……海舟、謎の印籠を所持すること(前編)
(四)

 --書院から手を打つ音が聞こえる。
 もう一本持ってこい、というのだ。師匠は、鳥居の若殿様をもてなすのに懸命だ。オレは、師匠の狙いは、〈馬〉を射て〈将〉を得るにあり、と見た。つまり、耀蔵様を大切にして、いずれは林大学頭様に取り入ろうというのだ。〈武〉の道でそれなりの名を得たから、今度は〈文〉でも、というわけだ。もし、自作の漢詩に大学頭様のお墨付きでも得られれば、〈文〉の道に井上伝兵衛あり、と自慢することもできようというもの。直新影流の嫡伝宗家を団野先生にもっていかれた師匠としては、こんなところで見返してやりたいのだろう。
 鳥居様は、お熱いのがお好き。それはさっき出したので、よく分かっている。さあ、お燗がついた、熱いところを早速に。
                   
 どうやら若殿様にも、お気に入っていただけたようだ。
 先方が子歳生まれ、オレが戌歳生まれと、年は二つ違いだが、剣術では向こうが上、先輩に当たる。身分の差は言うまでもない。
 苦労をしていないだけあって、辞を低くして、痒いところに手が届くように世話をしてやらないと、直ぐに額の横に青筋を立てる。この道場広しといえど、うまく扱えるのはオレだけだ。今まで何人の内弟子が、お相手をしくじったことか……。
                   
 今日、師匠から「当家の用人にならぬか?」との勧めがあった。入門して六年、「剣術では見込みがない」と言われたようなものだ。けれども、江戸に出てきたのも、別に剣術で身を立てようという強い決意があったわけではなし、まして帰る故郷も家もないようなもの。
 オレの才覚をもってすれば、この道場を切り回すのは、たやすいものだ。奥方や子どもという、暮らし向きの銭金が足りないの、小遣いをよこせのと、面倒なことを言う奴もいない。
 まして、大名・有力旗本の弟子も大勢いて、内福なのはよく承知。オレが上手に切り回した結果、自分も裕福になるのは、誰に迷惑が掛かるわけではなし、別に構わないだろう。師匠だって、溜めたものをあの世に持っていけるものではないしな。
 一瞬の内に、そう計算したオレは、
「はい、やらせてもらいます!」
 二つ返事で答えていた--。
                   *
「弟子の中から小柳七之助を選び、養子にいたす所存。この旨、お許しいただきたい」
 亀沢町の道場を訪れた井上伝兵衛は、後継者の公式な発表の前に、十二代目宗家・団野源之進に内諾を求めに来ていた。たまたま、団野道場に来ていた小吉も、その場の末席に連なっていた。
 団野道場の高弟である、小吉の従兄弟・男谷精一郎は、その養子縁組に賛成した。
「井上先生、七之助なら腕も立つし、なにより実直な人柄です。私も、よろしい話ではないかと存じます」
 小吉に発言権などないが、心中では賛成している。精一郎の言うとおりの腕と人柄だし、最近、師匠の権威を嵩にきて増長し出した、あの用人・本庄を抑えることができるのは、七之助以外にいないだろう。
続く

2005/11/30

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