|
|
第六話 足洗え屋敷……海舟、謎の印籠を所持すること(前編)
(六)
|
--長崎屋でのお役目は大成功!
高橋作左衛門という天文方の役人が、シーボルトに絵図面のようなものを渡しているのを、ちゃんと見届けたのだ。後で聞くところによると、それは日本地図やら蝦夷の地図だったらしい。
「我が国を夷狄に売る不届きな奴!」
と、異人嫌いの鳥居様は、例によって額の横に青筋を何本も立てて怒り狂っていた。こちらが怒られているわけではないが、そんなときは、どうも居心地が悪くっていけない。
さあ、出世の糸口がつかめた、と喜んだのも束の間。老中衆には、異人に理解のあるお方がいるとかで、その時は特に大事にもならずに終わってしまった。
--知ってのとおり、大事になるのは、翌々年、シーボルトが帰国する時のこと。オレが、地図を渡すのを目撃した高橋作左衛門も、牢に入れられ、そこで病死した。塩漬けになった死体が、死罪にかけられたっていう。
オレにとっちゃあ大成功でも、鳥居様にとっちゃあ不本意な結果に終わり、幕閣からは特にお褒めもなければ加増の声もなし。もちろん出世もない。そんなことで、オレは元の鞘に収まりの、しばらく泣かず飛ばずの、用人の日々に戻るってわけだ。
とりあえずは、元同輩の七之助にも我慢して、蓄財に励むしかないか--。
*
そのころ小吉は、刀剣の目利きや、「三所物(みところもの)」(小柄・目貫・笄)など、刀の諸道具を商って暮らしを送っていた。これらの道具には、金工・塗師・蒔絵師などの職人が必要だ。そんな関係から、小吉もこれらの職人衆との付き合いがある。
そんな中で、ちょっと妙な話が出てきた。
「井上伝兵衛が、印籠を集める道楽を始めた」
というのだ。
(あの堅物の御仁が道楽とは……。養子が決まって、もう楽隠居のつもりか?)
小吉は、例の鏡開きの一件以来、車坂の道場に出入りはしていない。
しかし、養子の七之助には、未だに個人的に目を掛け、団野道場に顔を出せば、技の一つも相手してやっている。そんなことから、
(印籠といっても、そうそう安い物ばかりを集めているのであるまい。
道楽はいいが、道場のことがおろそかにならねばいいが……)
と、どうにも気になるのである。
*
--「どうだ、この印籠の蒔絵の素晴らしさ。黒漆に金の富士が輝いて、まるで朝日を浴びているようだろう」
もはや、道場での稽古一切は七之助に任せっきりの師匠は、気に入った印籠を手にしているときが、一番幸せそうだ。今まで見たこともないような、ほたほたした笑みを顔に浮かべている。
しかし、稼ぎをあまり無駄に使われては困る。
印籠を買う都度、手元不如意というのでは、オレの才覚が疑われるが、金が無駄に出ていくのも見るに忍びない。そんなわけで、オレの月々のカスリも、近頃では目に見えて減ってきた。どこかで機会を見て、一発当てないと--。
*
向島は花の盛り。
所全体が花の色に染まり、霞さえも薄紅に燃えているようだ。
堤の上は花見客で一杯。毛氈を敷いて酒を酌み交わす人、食べる人、踊る人、喧嘩する人、歩く人……。
そんな中を、小吉と男谷精一郎が行く。
「おいおい、精さん、見ねえ。世の中には結構な奴が、大勢いるもんだぜ」
指さしたのは、大川に浮かぶ何隻もの屋根船。
「小吉っつあん、あれは井上道場の用人じゃあないか?」
「そんな馬鹿な。いくら流行っているからといったって、道場の用人風情に、そんな贅沢ができるもんか」
と目をやった船には、芸者二、三人に、幇間まで従えた男が、大きな朱の杯を手に花を見やっている。結城縮に綴織の帯と、着るものにも金がかかっていそうだ。
一方、土手の小吉は、刀だけは商売もので立派な拵えだが、着ているものは、羊羹色に変わりかけた黒の着物に茶献上の帯。
「ウーム、間違いねえ。あれは本庄だ、辰輔だ。奴は、どこで金をくすねやがったんだ」 |
続く |
2005/12/14 |
|