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第56回

第六話 足洗え屋敷……海舟、謎の印籠を所持すること(前編)
(八)

 用人であれば、盗み出すのは簡単だ。
 人のいないことを見計らって書院に入り、違棚の上から印籠を取り、懐にでも仕舞って、そのまま鳥居屋敷に駆け込めばいいだけのこと。
 その段取りどおり、師匠が駿河台のさる屋敷に行った留守に、書院へこっそりと忍び込んだ。手は違棚へ……。
 間の悪いことに、その時、障子が開き、
「お主、そこで何をしておる」
 と七之助が入ってきた。奴は師匠と一緒じゃあなかったのか……。
「い、いや、印籠のお掃除などを……」
「それは義父(ちち)が大切にしているもの。誰にも触らせるな、との厳命をお主も聞いておるではないか」
 その場は何とか取り繕って退去したが、七之助に見られたとあっちゃあ、疑いが師匠に伝わるのは目に見えている。
 その不安を宥(なだ)めるために、女の元へ。
                   
「出世したいんでござんしょう。お金も欲しいんでござんしょう。
 それなら、印籠を持っているとこをバッサリと殺(や)ればいい。
 今時、ウジウジしてるなんて流行んないよ。殺っておしまいよ。そうすりゃあ、アタシも御新造様だ。場合によっちゃあ奥方様と呼ばれる身分にもなれないことはない。
 アンタ、殺っておしまいよ!」
「そう簡単に言うなよ。相手は隠居同然とはいえ、剣客だ。こっちは、免許皆伝にもなれなかった用人だ。口で言うほど、そう簡単にはいかない」
 女との寝物語にしては、殺伐とした話だ。でも、オレより、こいつの方がやる気になっているのは、不思議といえば不思議な話。もっとも本人が手を下すわけではないから、簡単に言うのも無理はないか。
「それなら、腕の立つ浪人でも雇えばいいじゃあないか。
 アタシにも心当たりがないわけじゃあない」
                   
 明くる朝、道場へ戻ったが、やはり師匠の見る目には、今までとは違った冷たいものがある。
「ワシに呼ばれた時以外、書院まで来るには及ばん。用がある時は、こちらから出向く。楽ばかりしていると、足腰が弱るからな」
 最後は冗談めかしたが、師匠の真意ははっきりしている。盗人の疑いのあるものを置きたくはないが、追い出すには代わりがいない、ということだ。
 オレだって居づらいが、何も持たずに逐電するわけにはいかない。ここは我慢、我慢。その内、機会も生まれるだろう。
 念のために、腕の立つ浪人の目当てだけでもつけておこう--。
                   *
 小吉は、四谷に刀の目利きに出掛けた帰り、市ヶ谷の左内坂で妙な奴にでっくわした。「おい」と声を掛けようとしたのだが、先方は気づかずに、坂の途中を折れ曲がって行ってしまった。
 そちらには、質(たち)の良くない浪人が集まっていることで有名な長屋がある。小吉は、その男に印籠を盗もうとしたという嫌疑が掛けられていることを知らない。
「知っていりゃあ、様子を探ったでしょうよ」
 と後日、小吉は語っている。
                   *
 --谷底の長屋には、目つきの悪いのが、うろうろしていた。
 湿気はあるし、日が差さないので薄暗い。そこに妙なのが大勢いるのだ。オレは、何だか蛇のねぐらにでも踏み込んだような、気味の悪さを感じた。
 でも、そんなことを言っちゃあいられない。こんな長屋にしては割に小綺麗な家の前で、声を掛けた。
 腕は立つし、かどわかしだろうが殺しだろうが、何でも引き受けると、その筋で評判の高い浪人の家だ。
 家の中には、その仲間らしいのが二人、昼間からごろごろして、傍らの貧乏徳利に直接口をつけ、酒をぐびぐびやっている。
 紹介してくれたご仁の名前を告げ、家に招じ入れられると、名前を尋ねられた。向こうも、こちらが本名を名乗らないのを分かってはいるだろうが、名無しの権兵衛では呼びにくいとみえる。
 窓越しに黒板塀にひょいと目をやったら、子どもの落書きがあった。
「……への、への、いや、平野(へいの)茂平治と呼んでいただこう」
                   
 何と油断のないこと。
 そのため、まるまる一年間も、無駄に過ごさざるを得なかった。
 まるで、吉良邸への討ち入りを待つ、赤穂の浪人衆になったような心持ちだ。
 けれども、やっと運がこっちに回ってきた。
 明日、師匠は、あの印籠を見せびらかしに、駿河台のさる屋敷の茶会まで出向くというのだ。あの屋敷なら、帰りは遅くなる。それに向こうで酒が出るのも分かっている。
 とあっちゃあ、早速、浪人どもと相談せねばならぬ。
続く

2005/12/28

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