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第62回

第六話 足洗え屋敷……海舟、謎の印籠を所持すること(後編)
(四)

 長崎から小倉までは長崎街道を五日の旅、海路下関に渡り、瀬戸内海を船路で一週間、ようやく大坂に着いた。茂平治は、大坂から伏見まで三十石船、京・草津・守山と街道をたどり、ここから中山道に入った。東海道は当時の最重要幹線道路、人馬の往復も多い。これに比べれば、中山道は幹線とはいえ、山また山の中を抜けていく。したがって、通行量もさしてない。
 そのようなことから、かなり前から、凶状持ちや敵持ちなどのわけありは、東海道ではなく中山道を取ることが多い。茂平治も、その例外ではなかった。
 前夜は桶川宿に泊まった茂平治は、上尾・大宮・浦和・蕨と歩を進め、戸田の渡しで荒川を越えて、板橋宿まであと四半里を切るところまで来た。
 一方、その日、井上七之助と小松典膳は、浦和の在に茂平治らしき男が潜んでいるとの知らせに、探索に出掛けていた。けれども、知らせにあった寺にいたのは、単なる旅の虚無僧で、辰輔(茂平治)とは似ても似つかない。がっかりして、帰り道をとり、今夜は板橋宿泊まりと覚悟を決めて、中山道をトボトボと。
 茂平治は、江戸に帰れば、鳥居様からお褒めいただき、家臣へ取り立てられるのも夢じゃあない、と気もそぞろ。
(よし、今晩は前祝い。板橋宿で飯盛でも買って、パッと騒ごうか)
 と足取りも軽い。
 その時、折からの西日を浴びて、キラリッと光るものが目に入った。思わず、それに目をやった茂平治、
(げっ、こんなところに〈星座〉蒔絵の印籠! すると、この男は……)
 跡をつけ、曲がり角などで、気づかれないようソッと顔をうかがう。
(やはり、七之助! 馬鹿な、あんな大事な印籠を持ち歩くとは……。
 ああ、蒔絵に傷が付かなければよいが、地肌の輝きがいくらか薄れたようだが、ちゃんと手入れがされているのか、ここからじゃあ見えないが、方位磁石は無事でいるのか……)
 茂平治にとって、目に入るのは、もはや印籠だけ。
 敵持ちであることも忘れて、ふらふらと印籠についていく。
 小松典膳を先に立て、七之助は一軒の旅籠に入った。
(あっ、上がり框(かまち)に腰を下ろした。
 そんなにドカッと座るな! 印籠の角に傷がつくじゃあないか!
 印籠を、もっと大事に扱ってくれ!
 あっ、腰をずらして草鞋を脱いだ。
 急に動くな! 細かい細工が駄目になる!
 大事に扱え!
 ……それじゃあ印籠が可哀相だ。
 やはり、オレの物にして、大事にしてやらなければ……)
 茂平治は、印籠に引かれるようにして、旅籠の中へ。
「いらっしゃいまし! 今夜はお泊まりで? 何人さま?
 こちらの方のお知り合いで?
 だめですよ! 刀なんか、ここで抜かれちゃあ、お客さん!」
 女中の声に、湯の入った桶に足を突っ込んだ七之助は、顔を上げた。
「た、たっ、辰輔!」
 典膳は、やっと事情が分かったが、こちらは足を洗っている最中。身動きが取れない。
「印籠、印籠、オレの印籠……」
 うわ言のように、呟きながら、茂平治は刀を振り下ろした。
「ギエッ!」
 一ト太刀、二タ太刀……。
 夢うつつの内に、かつて身体に覚えさせた直心影流の技が素直に出た。
 太刀筋は、すべて七之助の急所に入った。
 血飛沫が天井まで上がる。
 流れる血潮は、足を伝い、洗い桶にボタボタと溜まる。
「印籠、印籠、オレの印籠……」
 茂平治は、掌を開き、刀を土間に落とした。
「印籠、印籠、オレの印籠……」
 両の手を伸ばして七之助の腰を探り、帯から印籠を外す。
「オレの印籠!」
 印籠を握りしめると、踵(きびす)を返し旅籠を出る。
 魅入られたように身動き一つ取れなかった典膳は、その時やっと、裸足のまま茂平治を追い始めた。
 けれども、街道へ出た典膳が見たのは、騒ぎを聞きつけて集まり始めた、宿場の人びとだけ。茂平治は、どこへ行ったか、すでに姿を眩(くら)ましていた。
続く

2006/2/22

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