|
|
第六話 足洗え屋敷……海舟、謎の印籠を所持すること(後編)
(七)
|
「それで、茂平治は本所に屋敷を持った。
まあ、本所とはいえ、岡野の隠居所の近く、かなり町を出外れたところではある。見慣れぬ怪しい者が近づけば、かなり目立つから、かえって敵持ちにはいい場所とも言えるネ」
〈岡野の隠居所〉とは、高野長英と田中久重を匿った、あの場所だ。官鉄総武本線の本所の駅(現在の錦糸町駅近く)には近いとはいえ、今でも、駅前には牧場などがある。旧幕府当時がいかに寂しい、田舎染みたところだったかが想像できる。
「茂平治にしてみれば、印籠は手に入る、屋敷は持てる、で人生の頂点に達した思いだったんでしょうね?」
私の質問に、先生は、悪戯っぽい顔をして、
「そう思うかい? ところが、それがそうでもないのだ。
本所の屋敷に移って、数カ月が経った頃だから、天保十三年の夏のこと……」
*
茂平治は、長屋暮らしでは、手文庫に収めていた印籠を、やっと書院の違棚に飾ることができた。
(これで日夜、好きなだけ眺めることができる……)
と思ったのも束の間。
夜になると、茂平治はうなされるようになった。元々寝付きがよく、夜中に起きたことの一度もない茂平治である。
毎晩、同じ夢を見る。
視界一杯のぼやっとした赤い霧だ。
やがて、その霧は集まり、ある形をつくっていく。
裸足の足!
血に塗れている。
板橋宿、七之助の足だ、ということが、なぜだか分かる。
足が視界全体に広がって……。
「足を洗え、足を洗え」
という男の声。
「ギエッ!」
と言って絶息した七之助の声だ。
「うーっむ、うーっむ」
自分のうなされ声で、目を覚ます。
暗闇には有明行灯のボッとした火が灯っているだけ。
眠りに入ると、また、
〈視界一杯のぼやっとした赤い霧〉。
一晩に、何度となく同じ夢。
夢を見ているときに、自分でも
「足を洗え、足を洗え」
と声を出しているらしい。それを不気味に感じて、使用人は一人辞め、二人辞めして、やがて、誰もいなくなった。
元使用人の口から、噂が町に流れ、茂平治の屋敷は、
〈足洗え屋敷〉
と呼ばれるようになったそうな。 |
続く |
2006/3/22 |
|