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第65回

第六話 足洗え屋敷……海舟、謎の印籠を所持すること(後編)
(七)

「それで、茂平治は本所に屋敷を持った。
 まあ、本所とはいえ、岡野の隠居所の近く、かなり町を出外れたところではある。見慣れぬ怪しい者が近づけば、かなり目立つから、かえって敵持ちにはいい場所とも言えるネ」
〈岡野の隠居所〉とは、高野長英と田中久重を匿った、あの場所だ。官鉄総武本線の本所の駅(現在の錦糸町駅近く)には近いとはいえ、今でも、駅前には牧場などがある。旧幕府当時がいかに寂しい、田舎染みたところだったかが想像できる。
「茂平治にしてみれば、印籠は手に入る、屋敷は持てる、で人生の頂点に達した思いだったんでしょうね?」
 私の質問に、先生は、悪戯っぽい顔をして、
「そう思うかい? ところが、それがそうでもないのだ。
 本所の屋敷に移って、数カ月が経った頃だから、天保十三年の夏のこと……」
                   *
 茂平治は、長屋暮らしでは、手文庫に収めていた印籠を、やっと書院の違棚に飾ることができた。
(これで日夜、好きなだけ眺めることができる……)
 と思ったのも束の間。
 夜になると、茂平治はうなされるようになった。元々寝付きがよく、夜中に起きたことの一度もない茂平治である。
 毎晩、同じ夢を見る。
 視界一杯のぼやっとした赤い霧だ。
 やがて、その霧は集まり、ある形をつくっていく。
 裸足の足!
 血に塗れている。
 板橋宿、七之助の足だ、ということが、なぜだか分かる。
 足が視界全体に広がって……。
「足を洗え、足を洗え」
 という男の声。
「ギエッ!」
 と言って絶息した七之助の声だ。
「うーっむ、うーっむ」
 自分のうなされ声で、目を覚ます。
 暗闇には有明行灯のボッとした火が灯っているだけ。
 眠りに入ると、また、
〈視界一杯のぼやっとした赤い霧〉。
 一晩に、何度となく同じ夢。
 夢を見ているときに、自分でも
「足を洗え、足を洗え」
 と声を出しているらしい。それを不気味に感じて、使用人は一人辞め、二人辞めして、やがて、誰もいなくなった。
 元使用人の口から、噂が町に流れ、茂平治の屋敷は、
〈足洗え屋敷〉
 と呼ばれるようになったそうな。
続く

2006/3/22

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