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第69回

第六話 足洗え屋敷……海舟、謎の印籠を所持すること(後編)
(十一)

「で、象山には、〈足を洗え〉はなかったんですか?」
「お順からは、特に聞いていないが、あの傲岸不遜な男だ、印籠が取りつく隙もあったもんじゃあなかろうヨ。
 フフフフッ」
 何か思い出し笑いのような声を、先生は上げた。
「ところで、乙羽クン、大分、あの印籠にご執心だが、まだ見せてはいなかったネエ」
 やっと、話には聞く印籠が、この目で見られる!
 きっと、私の顔には、パッと喜びが広がっただろう。頬が笑み崩れるのが、自分でも分かる。
 先生は、本棚から手文庫を下ろすと、卓の上に置いた。
 この中に入っている!
 手文庫を開けると、袱紗包みが。先生はその包みを、茶の湯のように、慎重な手つきで開ける。
 ついに、〈星座〉蒔絵の印籠が目の前に!
 これは、井上伝兵衛、伝之丞、本庄茂平治、佐久間象山と伝わった因縁の品。これら四人は皆、非業の最期を遂げている。
 印籠はそんなこととは関係なしに、ガラス障子から入ってくる日光を反射して、美しい黒漆の肌を光らせている。金色の蒔絵で描かれているのは、どうやら星のようで、何かの形を示そうとしている。それが何の形だかは、口の端まで浮かんでいるのに、はっきりしたことを言えないもどかしさを感じさせる。星の背後に散らした銀粉は、銀河を表しているようだ。
「きれいなものだ。もっと禍々しい印籠かと思っていた。この美しさが、かえって、みんなの欲望をかき立てるもととなったんですね?」
 先生は頷いて、
「手にとって底を見てごらん」
 と言った。
 ひんやりした手触りを感じながら、先生に言われたとおりにした。
 底には小さな方位磁石が埋め込まれていた。
「元々は、蒔絵師の山崎金三郎が、本岐道平の『航海でもし漂流しても方向が分かるようにしたい』という注文に応じて作った印籠。これは、その写しだそうだ」
「本岐道平といえば、あまり知られていませんが、『蛮社の獄』に巻き込まれて処刑された男じゃあありませんか!」
「そう、処刑された男が作らせ、手に入れた男が次々と殺される。また、途中で血を浴びた印籠は、持っているものに『足を洗え!』と命令する……」
「そんな不吉な印籠を持っていて、先生は大丈夫なんですか?」
「ああ、もちろん大丈夫サ。オレは座禅と剣術とで胆力を養ってきた。馬込村の別荘に置いておいた時、やはり『足を洗え!』ときたから、一喝してやったら、もう二度とそんなことはなくなったサ。
 もっとも、科学の知識のある奴に言わせれば、そんなのは神経の問題だそうな。
 毎日聞こえている雑音には、あらゆる音の要素が含まれていて、人間の神経によって、その中の適当な音だけが聞き取れる。だから、『足洗え!』なんていうのも、人間の神経が、雑音からそう聞き取っただけだ、というのだ」
「なるほど、一理ありますね」
「そうさ。だから、別荘には〈洗足軒〉と名付けてやった。所の名前が荏原郡馬込村千束。その地名の音と、この印籠に因んで〈洗足軒〉サ。どうだ、洒落てるだろう?」
 引退してから着物姿の多い先生のことだから、きっとこの印籠も腰に吊るすんじゃあないかと思い、そのことを尋ねた。
「ああ、そのつもりだヨ。昔使った根付けを、家中引っ繰り返して探している最中だ。おれの生まれ歳の犬を、牙彫りにした根付けサ。
 尾崎紅葉の父親は知ってるだろう?
 そうだ、赤羽織の谷斎(こくさい)といって、晩年は幇間などをしていたが、元々は根付けなどを彫るのを商売にしていた。その谷斎か、あるいは先代の谷斎が彫ったものだ。そいつも出てきたら、見せてやるヨ。
 だけど、なんで紅葉は、父親のことをあんなに隠そうとするんだい。よっぽど確執でもあったのか? お前は硯友社にいたんだから、事情は知っているんだろ」
 そこで、知るかぎりのことを先生に説明して、やっと辞去する許しをもらった。
続く

2006/4/19

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