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第六話 足洗え屋敷……海舟、謎の印籠を所持すること(後編)
(十二)
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社に戻ると、印籠の因縁話と、先生の別荘の名付けにまつわる話を、岳父と義兄にしてみた。
二人とも、因縁話には興味を持ったようだが、別荘に関しては顔を見合わせてニヤニヤするばかり。岳父の話を聞いて、やっと得心がいった。
「君は米沢の出だから、江戸やその周辺のことは、あまりご存じないようだが……」
(何を言ってやがる、二人だって越後長岡の出身じゃあないか)
と言いたいところだが、そこは入婿の辛いところ。じっと我慢して話の続きを拝聴した。
「……『せんぞく』という地名は、昔から『千束』とも『洗足』とも漢字を当てている。後者の当て字には、例によって弘法大師の伝説が関係しているんだがね……」
--ある日、旅の僧が馬込の地を訪れた。僧は足を濯ぐ水を所望したが、この地は水に乏しい。親切な婆が、貴重な水を僧に与えたところ、「親切にしてくれたお礼をさしあげましょう。明朝、村の外れを掘ってごらんなさい」と言って、突然姿を消した。翌朝、言われた通りに婆が、土に鍬を当てた途端、きれいに澄んだ水が吹き出し、やがて池となった。この池の水は、周囲の村の井戸が涸れるような日照りの時でも、常に水を湛えているという。旅の僧は、弘法大師だったのだ。そして、この話に因み、池は「洗足池」と名付けられたそうな。
という伝説である。
「乙羽クン、また、海舟先生にかつがれたな。どうやら先生は、君をひっかけるのを、老後の楽しみの一つにしているらしい。
結構、結構。それで記事の一本も余計に取れれば、これにこしたことはない。
今度、尾崎先生から印籠の話が聞けたら、それを盛り込んで、また一本記事にまとめるんだな」
と新太郎にはからかわれる始末。
「……という珍しい印籠なんだがね。何かそれにまつわる口伝でも、キミの家に伝わっちゃあいないかい。ウチの親父も社長も、これには興味津々でね」
尾崎紅葉がひた隠しにしている谷斎のことだが、私はある事情から、よく知っている。だから、上野の精養軒で開かれた新年会で、紅葉に会ったときに、遠慮なく聞いてみた。次に海舟先生を訪れたときに、話の継穂にでもしようと思ってのことだ。もちろん、紅葉には、印籠の持ち主が先生だということはしゃべっちゃあいない。紅葉は、興味を変に持つと、印籠の因縁話を小説にしようと、先生のお邪魔をしかねない男だから。まあ、当分は新聞連載の『金色夜叉』の執筆で忙しいだろうが。
「ああ、そう、そう。キミの親父さん、あるいは祖父さんが彫ったという、犬の根付けを、今度見ることができそうだ。見たら名人の腕の冴えについての感想でも聞かせるよ」
などとお愛想を言って、用を済ませ紅葉とは別れた。
明治三十二年一月十九日、天気晴朗の一日。
大寒一日前のことゆえ、天気はよくとも底冷えがする。特に、この博文館本社は、元砂糖問屋で幕末風の店舗造りだから、隙間から風が漏れきて、こんな日には閉口する。
編集長室と名は厳めしいが、何のことはない、元の座敷に南京絨毯を敷いて椅子と机、そして簡単な長椅子を入れただけの部屋。暖房といっても陶製の火鉢しかない。
話があって、岳父と義兄がこの部屋に集まっていた折も折、紅葉が入ってきた。
「それにしても寒いなあ。
ああ、佐平さんや新太郎くんも一緒だったか。ちょうどよかった。
先々代の谷斎の口伝が、見つかったんだ!」
紙虫(しみ)の食った跡が無数に走る古文書を、紺の風呂敷から取り出した。表紙には、『印籠根付法金百変法』という文字が読み取れた。
紅葉は指に唾をつけて、見るからに汚らしい頁をめくった。病的なほど清潔好きな鏡花がこの場にいたら、卒倒するところだ。
「ああ、ここだ。読みますよ。
『子犬の星を印籠に描くは大凶。そこに、牙彫りの犬の根付けをつけるは最悪なり。もし、印籠と根付けを共にし腰に吊るさば、三日以内に異変現るべし』。
でも、誰が、そんな変わった印籠を持っているんです?」
そうか、金色の蒔絵の星、あれは〈子犬座〉だったのか、と思い当たった途端に、電話のベルが部屋に不吉な音を響かせた。
私は、恐る恐る送受器を取って耳に当てた。
「はい、はい。それは本当ですか! では、父や義兄にもすぐ伝えます」
私は、耳から外した送受器をクレイドルに下ろせなかった、しばらく呆然として、やっと口を開いた。
「お義父さん、新太郎さん、海舟先生が亡くなられました」
どうやら、その知らせを聞き、氷ついたようになったらしく、義兄はオレの方を向いたまま、頭を動かさない。岳父は書類を両手にして、中腰で立ち上がったままだ。事情を知らない紅葉だけが、呑気にソファに腰を下ろし、片手に古文書を持ち、もう片手で器用にエアシップなどを吸っている。
やっと、目だけが動かせた。
三人は視線を絡み合わせた。
岳父と義兄の背後に暗闇が広がっていく。
旧幕時代の暗闇か?
大勢の人が、真っ黒な口を開けて叫んでいる。
尾関三英、渡辺華山、高野長英、佐久間象山、……。
岳父の顔に、見たことのある男が重なっていく。
義兄に重なっているのは誰だろう? そして、私には誰の顔が浮かんでいるのだろう?
闇がだんだんと濃くなっていく。
今度は、名もなき人びとの顔、顔、顔……。
遠くから紅葉の声がする。
「皆さん、どうしたんです?
佐平さん、新太郎さん!
乙羽くん!」
尾崎、お前には見えないのか?
あの人たちの姿が。
紅葉の呼ぶ声が遠くなって……。 |
了 |
2006/4/26 |
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