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下町音楽夜話

◆第413曲◆ 1Q84以上の別世界


2010.5.22

記憶は様々な重い付属物を従えて蘇ってくる。・・・村上春樹の大ヒット作「1Q84」の中に出てくるフレーズである。まさに、おっしゃる通り、記憶というものは単純なものではない。いろいろなものとリンクしているもので、懐かしい曲を耳にすると、要らない記憶まで蘇らせてくれることも多い。都合のいいことだけを覚えていることを、ご都合性健忘症などと言っているが、本当にそういう病があるなら罹りたいものだ。大抵の場合は、思い出したくもない付属物のほうが重たいものであろう。

お時間があればバックナンバーを読んでみていただきたいものだが、第247曲で、エイジアとフォリナーが立て続けに来日し、今はなき新宿の厚生年金会館大ホールで、オヤジの同窓会的な大盛り上がりライヴを披露してくれたのだ。あれからもう3年が経つ。エイジアはその後も毎年のように来日し、再結成後のメンバー、つまりオリジナル・メンバーでアルバムも2枚リリースしてくれた。一方のフォリナーは音沙汰無しかと思いきや、昨年中にいつの間にか新盤がリリースされていた。こういった情報にはかなり注意しているほうなのだが、気がつかないうちに新盤がリリースされているということは、やはりマス・メディアの取り上げ方が小さくなってしまったという証拠だろう。しかし、昔ながらのこういった音楽で盛り上がっているオヤジは結構な数いるもので、それなりのマーケット規模でもあるはずなのだが、どうしたものか。

その一方で、あの世代の連中は元気に現役でやっているんだななどと思いつつも、果たして若者の耳にはどう聴こえているのやらと、疑問に思わなくもない。何せ、昔のままのスタイルを固持しているのだ。もう信念を持って正しいことをやっていると言わんばかりに、昔のまんまなのである。あまりに昔のまんまなのが、かえって不自然に思えてしまうほどなのである。今回、エイジアの新盤「オメガ」の発売に合わせて、フォリナーの「キャント・スロー・ダウン」も購入したもので、ついつい3年前の来日公演を思い出し、よせばいいものを、ついつい比較してみたりしているのである。

何が面白いかというと、フォリナーの「キャント・スロー・ダウン」は、実に様々なスタイルのパッケージ・メディアで売られており(CD1枚、2枚組、DVD付き、7インチ付き、アナログLPといったあんばいだ)、自分はウォルマートのみで売り出されたというCD2枚組にDVDも付いたものを購入したのである。このCDの2枚目は昔のヒット曲をリミックスしたもので、確かにメリハリが出たように感じる。ケリー・ハンセンは、オリジナル・メンバーのルー・グラムによく似た声で、しかも猛烈に歌が上手い。高音の伸びはルー・グラム以上だ。そんなわけで「キャント・スロー・ダウン」の1枚目と2枚目を続けて聴いても違和感が全くない。ゴールデン・ウィークの最中に届いたので、我ながらヒマなヤツと思いつつも、このリミックスとオリジナルを聴き比べて遊んだりもしてみた。

結局のところ、2010年の時点で聴くためには、かなりレンジを広くとらないと、昔の録音はショボく感じてしまうということなのだろう。広がったレンジが、古い曲に新たな躍動感を与えたような好印象を付け加えることになっている。さらに、この「キャント・スロー・ダウン」というアルバムは、実によくできている。曲も粒が揃っており、いずれも捨て曲なしの出来映えだ。演奏が上手いだけでなく、フォリナーというバンドのアイデンティティをしっかり理解し、現代的な解釈を加えたうえで、実に上手く継承しているのである。現在は、これほどのクオリティのアルバムを作っても、さほど売れないのだろうか?確かに音楽業界全体のマーケットが縮小している現代としては、産業ロックと言われた時代と比べると、利益率は低いのかもしれないが、やはり評価されることでモチベーションも維持されるだろう。こういった素晴らしいアルバムが作れる連中が、売れないという理由だけで終わってしまうのは勿体ない気がしてならない。

一方のエイジアは、まあこんなものかといった程度のアルバムだったので、少々残念に思っている。ジョン・ウェットンのヴォーカルは、もともと演歌か昭和歌謡に通ずるところがあるので、一歩間違うととんでもないものになってしまうが、今回もギリギリの線といったところだ。ジェフ・ダウンズ主導と思われる大仰なメロディは、いかにもエイジアなのだが、少々安っぽく感じる部分も多い。相変わらずメロディアスで、曲のクオリティはそこそこなのだが、ポップ過ぎる気もする。何もエイジアのメンバーでなくともといった印象だ。とにかく昔にはあったはずの緊張感が全くないので、正直なところ別物だ。それでも、エイジアのアイデンティティの継承という意味では、現役感もあるし前作「フェニックス」の一曲目の「ネヴァー・アゲイン」のような安易な焼き直し曲がないだけでも、これはこれで評価すべきなのだろう。比べるべきものではないのは承知の上であえて書くが、フォリナーを見習いなさいと言いたいところだ。

エイジアもフォリナーも、学生時代にヒットしていた連中だけに、青い記憶が決して思い出したくもないような付属物を従えて蘇ってきてしまった。その後に流れた長い年月の重さが異様に大きいために、普段は感じないままでいられることではあるが、決して自分が本望だと思える生活をしていないことも、あらためて認識させられてしまった。村上春樹が、何故この期に及んで、インターネットも携帯電話もない世界の話を書こうと思ったかは知りようもないが、それなりの苦労もあっただろう。1984年の物語にワープロやペットボトルが登場することに違和感がないわけではないが、示唆に富んだ面白い内容ではあった。結局のところ、月は2つ浮かんではいないが、現代社会は1Q84と同じか、むしろそれ以上の別世界になったように思う。やはり、インターネットや携帯電話が日常生活に与えた影響は、あまりにも大きい。これらがなかったとしたら、音楽界も全く別の様相を呈していたのだろうか?

結局のところ、1980年代前半にアナログを前提とした考え方しかできなかった人間が、その後の20数年間をどう生き延びたのか、きっとそこにはさまざまな選択肢があるにはあったはずだ。しかし、自分が自分の将来とまともに向かい合うこともせずに、安易な考えのまま社会人になり、流されるかのように現代に至っていることは、結局避けられなかったことのようにも思う。その一方で、別世界の中に生きるようになったのは、自分の意思でではないという思いは一層強くなる。学生時代の漠然とした不安という付属物を従えて蘇ってくるフォリナーやエイジアの記憶は、1Q84以上の別世界に至る人生の検証作業を強いてくるものでもあるようだ。


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