何度も書いているように、自分の場合、ジャズを聴き始めたのが遅かったので、ジャズのコレクションは大半がCDなのである。1970年代、80年代とリアルタイムでロックを中心とした音楽を聴いてきて、ジャズはついでにといった程度だった。80年代後半にブルースにハマり、その後ジャズ、といってもブルーノートに思い切り夢中になったのである。またその頃、面白い解説本に出会い、名だたる有名盤を片っ端から聴くというかたちでジャズに親しんでいったのである。もちろんそれまでにも、「サキコロ、サキコロ」と騒いでいた先輩がいた大学時代にはソニー・ロリンズをそれなりに聴いてはいるし、フュージョンはロックと同じ土俵で聴いていたので、さまざまなミュージシャンのライヴには行っているのである。つまり、モダン・ジャズのアルバムを買い集め始めたのがかなり遅いというだけなのだ。そして、最近ようやくアナログで聴くジャズも悪くないなと思い始めているのである。悪くないどころか最高なのだ。
そうやってジャズ・ジャイアンツの有名盤がどんどん集まってくるなか、どうしても何から取りかかってよいか迷ってしまって後回しになってしまったのがズート・シムズだった。ブルーノートの1500番台などは、目につく限り片っ端から買っていたので、かなり短期間である程度まで制覇したため、ユタ・ヒップ盤などでズートの音は耳にしていた。ソニー・ロリンズの影響もあってか、テナー・サックスに関してはしっかり吹ききるタイプが好きなので、ズートは耳にする前から好きになれそうだという期待が持てたのである。そして、たまたま「ダウン・ホーム」のCDを見つけて聴いてしまってからは、ワン・ホーンものを中心にいろいろ買い集めていったのである。
そんな時期に、ズートの名盤として、聞き慣れない名前を挙げている評論家がいた。誰かも忘れたし、どの本だったかも分からなくなってしまったが、そこでの書き方が、「この盤がズートの代表的な一枚であり、これを聞かずしてズートは語れない」といったものだったのだ。当然、これは聴かねばと思った。しかし、これが手に入らない。いくら探しても見つけられないのである。必死になってディスク・ユニオンとレコファンを何軒もはしごして、タワーだのの大手輸入盤店もまわり、入手できないでいたのである。そんなとき、ひょっこり東芝から再発されるという広告を目にしたのである。1991年のことだった。これは嬉しかった。その盤が「デュクレテ・トムソンのズート・シムズ」だった。
1956年3月、パリで録音されたこの盤は、フランス人のピアニスト、アンリ・ルノーとジェリー・マリガンのサポートをしていたトランペッター、ジョン・アードレイをフィーチャーしており、パリのイメージに引きずられるのか、一期一会の旅愁を感じさせるせつなさが心に沁みた。オリジナル盤は数十万円はすると言われる幻の一枚で、国内盤はニホン・ディスクというレーベルから、オリジナル同様10インチ盤で発売されていた。60年代になってからのことで、10インチ盤はいまでこそ人気があるが、もっと長く演奏が聴けるLPに駆逐されてしまった時期だけに、最初から幻の一枚になる運命にあったのかもしれない。その後70年代になって一度オデオンから12インチのLP盤の体裁で再発されているが、ひどい画質のジャケットだったために、こちらはさほど高値にはなっていないという。それでもゆうに万はするので、買えたものではない。そして、CDだ。1991年に発売されたときも、ずいぶん大騒ぎしていたと思う。道理でいくら探してもないわけだ、ということが後から分かったときには悲しかった。幻の一枚を代表作として推薦する評論家は死んでほしいと思ったものだ。
本盤の演奏は、既に引退を決め込んでいたズート・シムズを、ジェリー・マリガンが引っ張り出してヨーロッパへの楽旅へ連れていったときに録音されたものである。オランピア劇場でのパリ公演の翌日、アンリ・ルノーを中心にセットされたもので、名演とされるクインシー・ジョーンズ作曲の「イヴニング・イン・パリス」など、録音時点でズート・シムズは知らなかった曲だという。そういった逸話が生まれるほど、この時代のズート・シムズの、ここ一発のひらめきは天才的なものがあった。前夜の公演終了後、深夜にスタジオで録音したリハーサル音源が、このとき購入したCDにはボーナス・トラックとして収録されているのだが、自分はむしろこちらの演奏のほうが好きだった。本番よりも、かなりリラックスしていたからか、それともジェリー・マリガン楽団の一員としての演奏では物足りなかったか、自分にとって、ズート・シムズの最も好きな演奏は、このデュクレテ・トムソンのボーナス・トラックということになってしまった。
さて、先日、HMVのサイトで、久々に「デュクレテ・トムソン」の文字を目にした。おやっと思ってよく見てみると、何とカルトな名盤を送り出してくるオーディオファイルの憧れ、澤野工房がリマスタリングを施して、10インチ盤で再発するという。「この期に及んでアナログで出してくるか、しかも10インチ!」と思ったが、アナログ愛好家にとっては、幻の一枚であることにかわりはない。ここ数年、ズート・シムズの古いライヴ録音をアナログでリリースするような企画も続いており、ズートをアナログで聴くというのは、結構旬なのかもしれない。それにしてもデュクレテ・トムソンだ。気になるお値段は、3,990円。10インチだから35分程度の演奏にこれは少々高い。しかし、幻のオリジナル盤と比べれば100分の1のようなお値段だ。しかも澤野、これは買いか?いやはや、まいった、これは悩ましい。
澤野工房は、大阪は新世界の履物屋の4代目が熱狂的なジャズ好きで、1980年に澤野商会を立ち上げたことを起源とする。当初は日本のジャズを輸出してヨーロッパに紹介することを目的としていた。その後デジタル・メディア普及のあおりを受けて業績不振に陥ったりしたが、1998年からCD制作に乗り出し、これがいずれも素晴らしい音質で高い評価を得た。2002年から法人化し、今ではすっかり高音質レーベルの代表となっている。個人的には、2004年に神戸に行ったとき、旧居留地の有名レストラン「十五番館」のギフト・ショップで、素晴らしい音を流しながら「ハンドメイドJAZZ」という看板を掲げて澤野工房のCDがいっぱい売られており、頑張っているなあと感心したことが懐かしく思い出される、といった程度である。また、地元の自治体と協力してジャズ・イヴェントを開催したりしているので注目はしていたが、実はまだ1枚も買ったことがない。輸入盤のお安い価格になれてしまっている身には、少々お高いのである。しかし気になる。デビュー当事、澤野から売り出した山中千尋も気にならないわけではないし、そろそろ手を出してみるかという気もしないではない。うーん、デュクレテ・トムソン・・・。