9月の下旬、自分にとっては非常に貴重なライヴが東京国際フォーラムで開催される。既に解散を表明しているシンプリー・レッドのラスト・ライヴである。一時期はあれほど人気があったのに、たった一夜限りというのも寂しいものだ。そこそこヒット曲を持っているのだから、何も解散などする必要もないだろう。もっと言えば、シンプリー・レッドというのはグループというよりも、ヴォーカリストのミック・ハックネルのソロ・プロジェクトとしての性格が強く、その他のメンバーは固定していないも同然だったのだから、解散などという概念に当てはまらないような気もするのだ。正確に言えば、シンプリー・レッドとしての活動を停止するといったところだろう。ではソロでのミック・ハックネルはどういった活動をするのかといえば、結局音楽的に大きな違いがあるわけではなく、ソウルやR&Bを中心とした音楽性は維持している。よくわからないといった印象ではあるが、ともあれ、シンプリー・レッドのラスト・ライヴは絶対に見逃せない。
1986年、就職はしていたものの、自分の人生というものの方向性がまだ定まっていないような状況で、ひたすら法律の勉強だけはしていた頃、シンプリー・レッドの「ホールディング・バック・ジ・イヤーズ」は地味ながらヒットしていた。MTV全盛の時代、ベスト・ヒットUSAでも随分オンエアされていた。アナログからデジタルに切り替わる頃で、今であれば間違いなくアナログで聴きたいと思う曲だが、デビュー・アルバムの「ピクチャー・ブック」はCDで購入してしまった。しばらくしてアナログのよさに拘り始めた頃、慌ててアナログ盤でも買い直した一枚でもある。非常に内政的な印象を受ける大人のバラードといったところだが、歌の上手さが新人とはとても思えないレベルだった。自分の人生における目標が定まらず、いろいろ考え悩むことが多かった時期に、自分を見つめ直し、自己のアイデンティティを確立するのに随分手助けしてくれた曲だったように記憶している。
その後、しばらくはシンプリー・レッドから遠ざかってしまった。自分がまずブルースにハマり、そしてジャズに開眼してしまったため、ポピュラー・ミュージックから遠ざかってしまったためである。ソウル・カヴァーの「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ」が非常に売れていたので頑張っているなということは知れていたが、とりわけ食指が動くものではなかった。当時はアルバムの評判は非常によいものの、マスコミからはヘンに攻撃されているような印象を受けた。「実態はソロ・プロジェクトである」といった発言が世間の反感をかったように思ったが、そういった話題にさほど興味がなかったので、このまま消えていってしまうのかなといった程度に思っていた。
1995年、シンプリー・レッドは意外にも再び自分にとって大事なバンドとなった。この年は1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件が勃発し、慌しい印象の年だった。自分は故青島都知事がこの年の選挙で当選し、公約どおり中止してしまった世界都市博覧会の開催準備に携っており、さらにバタバタした年だったのである。個人的にもバタバタ、ゴタゴタしていた頃で、公私ともども落ち着かない日々を送っていた。年齢的には35歳になっており、それまで続けていたバスケットボールも体力の限界を感ずる場面が多くなり、そろそろ引退を考える時期となっていた。そういうことは重なるもので、生活全般に大きな変化が起こっていた。居宅も千葉から江東区の大島に移り、下町生活がスタートしたのもこの時期だった。そして、ゴタゴタした日々に終止符を打つかのように、その翌年には結婚に踏み切ることになったのであった。
そんな頃、時々耳にする異様に印象的なフレーズを持った曲があった。シンプリー・レッドの「フェアグラウンド」だった。ラジオで何度か聴いて、「いい曲だな」と思ってはいたのだが、誰の曲かわからずにいたのだ。普通にシンプリー・レッドを聴き続けていれば声で判ったかも知れないが、自分にとっては10年前の大ヒット曲「ホールディング・バック・ジ・イヤーズ」、の印象が強すぎて、シンプリー・レッドと知れたときには直ぐには信じられなかった。しかし気を取り直して、CDを買いに走ったものだ。毎朝毎晩聴いていたJ−WAVEでやたらと流れていたために、どうもこの曲を聴くと、ジョン・カビラのトークが一緒に思い出されていけない。だからこそ、この曲の印象がよいとも言えるのだが、ジョン・カビラは、環境問題などにも目を向けさせてくれた、恩師とも言える尊敬するDJである。とにかくこの曲は、印象的なドラムス、これ以外はあり得ないのではと思えるほど絶対的に優れたアレンジ、楽器の音の一つ一つにまで神経が行き渡っているような一体感、そして躍動感。まったく揺るぎないヴォーカル、どれをとっても最高の出来のように思われた。
自分の場合、若い頃に酷くカラダを壊したことや大学の同級生との結婚にも失敗して、かなり浮き沈みの激しい人生を送ってきただけに、再び結婚するということはあまり考えていなかった。それでも、今のつれあいと一緒になり、自分自身でも、もう一度キチンとした人生をやり直してみるかという気になったのが、1995年から96年の頃だったのである。騒然とした世の中にあって、何でもありのような大きな社会的変化が訪れていた。PCが普及し、しばらくすると携帯もインターネットも普及してくるような時期だ。何があってもおかしくないような状況の中で、自分自身のアイデンティティと方向性を見極めるのは、至難の業のようにも思えたものだった。
そんな中で、前向きな気持ちにさせてくれた「フェアグラウンド」という曲には感謝の気持ちすら持っている。いや「フェアグラウンド」だけではない。1996年当時にJ−WAVEで流れていた曲に対しては、みな同様の感情を持っているのである。エリック・クラプトンの「チェンジ・ザ・ワールド」もそうだった。他にもアラニス・モリセットやスマッシング・パンプキンズなど、時代とともにイメージが形成された音楽というものが自分の中には、いくつもあった。その代表が「フェアグラウンド」なのである。そういった曲が与えてくれたものの重さは、とても言葉では表しきれない。結果的にその後の世の中は、2001年9月11日という日を経験し、更なる変化に晒されていくことになる。自分自身の生き方や向かっていく方向が定まっていないとかなり辛い世の中になったなとも思える状況だ。個人的には、そういった時代に備えることができたのは、この時期のJ−WAVEから流れてきた曲や情報だったようにも思っている。9月のシンプリー・レッドのラスト・ライヴは、感謝の念とともに、思い切り楽しみたいものである。