久しぶりに、築地の聖路加タワー47階にあるレストラン・ルークで食事をする機会があった。自分は1996年にここで結婚式を挙げたのだが、今回は当のつれあいとではなく、普段一緒に働いている同僚とである。自分はもう20年近くも職場内で英語の通訳をやっているおかげで、いろいろ面白い体験もさせてもらっているのだが、少しでも若い連中にそういう機会をおすそ分けしてあげようと、昨年から英会話の勉強会を立ち上げたのである。しかし、結局のところ、自分の興味がある話題ばかりをテーマにやっているもので、数人の物好きな若者が暇つぶしがてらか、参加してくれているといった状況なのである。
昨日は、そんな連中と一緒に、まちづくりや商店街振興などといった切り口から、非常に個性的な活動を続けている商店街、神楽坂を探検しに行こうという予定だったのである。ところが、ここ数日の猛暑続きで、歩き回れるほど体力に自信がない自分が尻込みしてしまい、もう少し条件のよい時期に延期することになったのである。しかし、せっかく忙しい身の連中が調整してくれていたので、中止はもったいないなということで、どこか高いところからまちの様子を眺めながら食事でもしようということにしてしまった結果、レストラン・ルークを選んだというわけである。
とにかく、47階という超高層にありながらデッキに出られるお店なので、コース料理を食べながらその合間にウロウロ歩き回るという不思議な状況が展開する。東側は発展著しい豊洲を眼前に眺め、江東区全般が見渡せる。そこに建設中のスカイツリーが猛烈なインパクトとともに建っている景色が、以前とは大違いだ。日が暮れてからは、西側、つまり都心側の華やいだ夜景が素晴らしい。大丸有の再開発とともに大きく変貌を遂げた東京駅周辺の灯りのボリュームが圧倒的だが、あちこちに超高層ビルが林立する景色は、やはり世界に冠たる大都市東京といったイメージで、巨大なパワーを感じる。昨日は20時頃から東京タワーがブルーに染まり、ひときわ美しい姿を夜景の中で目立たせていた。
この景色は、たまに見ないと勿体ないと思っている。心地よい風に吹かれながら夜景を眺めていると、自然にまた頑張ろうという気になるのだ。引きこもってばかりいるのは、やはり精神衛生上よろしくないということが、一目瞭然、瞬時に理解できる。その反面、都市のパワーが大きすぎて、気圧されることも事実だ。しかし、そこは「自分もこの都市を構成する一人なんだ」と思うことで、前向きなモチベーションに置き換えればよい。所詮都会は田舎者が集まってできるもの、一人一人の力は微々たるものでも、みんなが力を合わせれば、こんなにも大きな都会を築き上げることができるのだから凄いと思うし、その背景に大きな歴史というものが感じられれば、もう完璧である。面白いほどに四次元的な感覚を味わうこともできるのだ。何はともあれ、一見の価値ありなのである。
さて、下町音楽夜話の第6曲でも、このレストラン・ルークの天井の高さに触れているが、昨日は、あらためてこの空間利用の素晴らしさを体験してきた。フロアの面的な広さと比較して、この店の空間はかなり縦長なのである。約3フロア分もあろうかと思われる高さを吹き抜けにして使い、東西両面をガラス張りにしたインテリアは、一見ゴージャスで華やかな演出も上手く出来ているが、その一方で地上47階ということを感じさせないほど、地に足がついたような安心感をもたらしている。建築デザイナーのウデなのか、インテリア・デザイナーのセンスなのか、実に素晴らしい空間デザインが提示されているのである。もちろんフロアの色使いや、ゆったりとしたテーブル配置など、いろいろな要素が重なり合ってできたものであり、学ぶところが非常に多い。食事をしに行って何を見ているのやらと思われるかもしれないが、冷えたモンラッシェを飲みながら交わす話題には事欠かないということだ。
このお店のBGMは、非常にお洒落な雰囲気を見事に演出する生ピアノの演奏である。気の毒なほどフロアの隅に追いやられたグランド・ピアノはヤマハ製だが、このピアノの音が実によい按配で嬉しいのだ。クラシック音楽を聴く方などに言わせれば、大していい音ではないといわれるかもしれないが、自分のような電気的に増幅した音楽を日々聴き慣れている身にとっては、楽器本来の響きの量と空間がもっている響きの量がうまくバランスしており、非常に心地よく響くのである。低音が強すぎないことと適度に枯れた高音が、スタンダード・ナンバーなどを軽く演奏するシチュエーションには最適だと思わせる。やれ、スタインウェイだのベーゼンドルファーだの、ベヒシュタインだのといった名品は、やはりコンサート・ホールで華やかに鳴ってなんぼのもの。レストランの片隅で古いポップ・チューンを演奏し、酔客に思い出を蘇らせ、心地よくさせてくれるのはヤマハの方が向いている。まさか、そこまで考えてこのピアノが選ばれたとは思わないが、あるべきところにあることの素晴らしさよ。
このお店のインテリアは、ウッディな壁面と絨毯がかなり落ち着いた雰囲気を醸し出している。しかし、前述の通り、普通以上にガラス面が多いということも事実で、音のチューニングをするのはかなり難しそうな気がする。必要以上に音が響いてしまいそうにも見える空間を使って、落ち着いた雰囲気とおっと思わせる音響空間を両立させているのだから、実はかなりの実力を持った人間が設計したのではなかろうかと思っているのだが、残念ながらインターネットで調べても情報が出てこない。確かにこのお店が持っている価値は、インテリアよりも外に見えている夜景の素晴らしさであろうから、そういった部分にはあまり注目されないのかもしれない。
そろそろ帰ろうかと思っていた頃、ヤマハのピアノを弾いていたピアノマン氏、お客さんのリクエストで、ビリー・ジョエルの「ピアノマン」やザ・ポリスの「エヴリー・ブレス・ユー・テイク」などを軽やかに弾いていた。つれあいと訪れていたのであれば、少し待たせてでも、彼と少し音響談義でも交わしてみたいなと思っただろうが、昨夜は申し訳ないが演奏中に席を立つことになってしまった。相変わらず軽やかな残響を背後に聴きながら、地上に降りていくのはなんとも心残りな気もしたが、灼熱地獄も少し気温が下がり意外なほど夜風が心地よかった。川が近いせいなのだろうか。異なスタイルの築地本願寺を眺めて帰ろうなどと少し余分に歩いたら、当然ながら汗が吹き出して現実世界に引き戻された。しかし地下鉄に乗った後でも、頭の中ではまだ枯れた高音のピアノが鳴り響いており、涼しい余韻を楽しむことができた。