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第2回
「今日われ生きてあり」

著者神坂 次郎
価格428円
出版新潮社
発行年1993年

 小泉総理の言葉に「つらいときには特攻隊員の気持ちになってみる」というのがあります。特攻隊、それは人間の命を機械の部品のように扱った殺人兵器でした。
 この特攻隊を扱った本はいくつかありますが、今回紹介する作品は十九話からなっています。主な舞台は鹿児島の知覧です。沖縄まで六百五十キロ、当時の飛行時間で2時間余。特攻基地知覧から帰らざる壮途についた隊員は四百六十二名。散っていった隊員にはみな物語がありました。
 二度と帰らぬ任務につく若者たちに地元の人たちや婦人会、女子青年団の人たちは、胸元からこみあげてくる悲痛な思いを抑えて、つとめて明るい表情で振舞いました。そんな人たちの中に足の不自由なカヨという女性がいました。好きになった特攻隊員のために、隊員の身代わりになって死んでくれるという「特攻人形」を裁ち残りの美しいハギレで作りました。もらった青年は「知覧に来て、よかった。この人形とふたりで突っ込めるからな」そう言って、自分のマフラーをカヨの手に握らせたのです。この後、青年の搭乗機は故障で不時着して、青年は助かります。が、カヨは知覧大空襲で二度と青年に会うことはないのです。「知覧に来て、よかった」このことばが胸に突き刺さります。あふれそうになる涙を抑えるために、あえて言わしめたのです。
 以前「プライベート・ライアン」というスピルバーグ監督の映画があったのをご存知ですか。第二次世界大戦で兵役についた三兄弟のうち二人が死亡し、残る一人を助けるために全力を尽くす部隊の物語です。この本の中にも四兄弟すべて死亡という話があります。アメリカ軍には兄弟全員の死亡は避けなければならないという不文律がありました。しかし、日本では残された四男は特攻隊を命じられ、御国に殉じるのが当然とされました。四兄弟全員死亡の平柳家は戦中、浦和の誇りとされながら、戦後は家の前を子どもたちが罵詈雑言を浴びせながら通ったそうです。ただ一人残された母の思いは如何なるものであったか。唯一つの収入源の軍人恩給も打ち切られ、外に出ることもなくなったそうです。四男の特攻振武隊長の最後の筆跡は「お国の為に捧げる自分の命は惜しくはないが、私には年老いた一人の母が居ります。私が死んだ後の母が可哀相です。」とあります。
最後に残った自分が逝ってしまうのは忍びなかったはずなのに、国家はそれさえも奪い去ってしまうのです。
 前線で死んでいく多く若者たちとは対照的に、敵前逃亡した将軍たちもいます。中には護衛の飛行機をつけて逃げた将軍もいます。そして、戦後長くその醜い姿を戦死者たちの前にさらしたのです。勿論、軍人だけでなく沖縄県知事のように政府の高官で逃げた人もいます。自分の命が惜しくて逃げたのです。もちろん、硫黄島で全滅した栗林中将のように対米戦争の愚かさを認識しながら、左遷された地で全力を尽くした方もいます。しかし、「この富永も最後の一機で行く決心である」と刀を振り上げて激励しながら逃げた富永中将は死に値します。多くの若者を死地に追い立てた責任を放棄したからです。
 今日26日、イラクへ自衛隊の先遣隊が出発しました。戦後五十八年、特攻隊の事を口にする人も少なくなりました。そうした中で、冒頭の総理の言葉が私の心に小さな棘のように刺さっていました。特攻隊を口にした総理は、今までいなかったように思います。
その総理が決断した自衛隊のイラク派遣。隊員を鼓舞して、送り出すのは簡単です。大切なのは責任です。隊員に対して、国民に対して、イラクに対して、そして歴史に対していかなる背任を果たすのか?
 「日本を救うため、祖国のために、いま本気で戦っているのは大臣でも政治家でも将軍でも学者でもなか。体当たり精神を持ったひたむきな若者や一途な少年たちだけだと、あの頃、私たち特攻係り女子団員はみな心の中でそう思うておりました。三十八年たった今も、その時の土ほこりのように心のなかにこびりついているのは、朗らかで歌の上手な十九歳の少年航空兵出の人が出撃の前の日の夕方『お母さん、お母さん』と薄ぐらい竹林の中で、日本刀を振り回していた姿です。立派でした。あンひとたちは・・・。」
女子青年団の松元さんの言葉です。

2003/12/30