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第6回
「博士の愛した数式」

著者小川洋子
価格1500円
出版新潮社
発行年2003年

 愛する人の記憶が失われたらどうなるか。
このテーマを扱った映画に「かくも長き不在」(仏・1960)がある。戦争中、拉致された夫が突然通りかかる。記憶喪失で、妻の名前さえ覚えていない。一緒に暮らしても、昔一緒に踊ったダンスを再び踊ってみても、男の記憶を呼び戻すことは出来ない。そうこうして時間が過ぎていく。ついにその男が出て行こうとするとき、妻は夫の名前を叫ぶ。奇跡が起き、男は全てを思い出し妻のほうに顔を向ける。

 今回紹介する作品は、この「記憶喪失」と過去も未来も一切無関係な「数式」をキーワードにしている。しかも、単に記憶喪失というだけでなく、今もなお80分しか記憶が持続しないという。
登場人物の主人公はもちろん記憶喪失で数学者、しかも80分しか記憶がもたない。
ほかには彼と同じ敷地に住んでいる義理の姉。そして、博士の80分の記憶に存在し続けることになる、家政婦と博士から√(ルート)と呼ばれるその息子。

物語はこの家政婦とルート、博士の3人で数学の問題を解いているところから展開する。
博士とはいかなる人物か。
「何も答えられずに黙ってしまうより、苦し紛れに突拍子もない間違いを犯した時の方が、むしろ喜んだ。そこから元々の問題をしのぐセンスがあり、いくら考えても正解を出せないでいるときこそ、私たちに自身をあたえることができた。」
博士の√への解説は、そのままノーベル賞を受賞した学者の発言としてもなんら遜色はない。そして、これは記憶が80分しか持たない自分にとっての解決法でもあるのではないか。さらにいえば、ときには記憶や経験を超越したところに手を伸ばしてみる、そのことが私たちに自身を与えてくれる。
80分だけ会っていれば、誰も記憶喪失だなんて気がつかない現役の数学者。

 初めて、家政婦が博士を出会ったとき、博士は彼女に靴のサイズを聞く。彼女は「24です」。すると博士は「1から4までの自然数を全部掛け合わせると24になる」
今まで気がつかなかった数の不思議に気づかされる。彼女の電話番号、576−1455は1億までの間に存在する素数の個数に等しいという具合に博士はいとも簡単に答えてしまう。
そして、彼女の誕生日、2月20日の220と博士が授与された学長賞の腕時計の番号284。これは220の約数を全て足すと284になるという。また逆に284の約数の和は220。これこそは「友愛数」といい、あのフェルマーやデカルトも1組しか見つけられなかった、神の計らいを受けた絆で結ばれた数字。彼女の誕生日と博士の腕時計に刻まれ数字がこれほど見事につながりあっている。まさに運命的な出会いだ。
博士の解説は明快に数式という一点の妥協もゆるさない赤い糸を示している。そこには博士の記憶喪失はなんら影響を及ぼさない。

 過去のさまざまな記憶とは何なのか。博士はその断片を背広の考えられる、ありとあらゆるところにメモしてクリップで留めている。それでも、彼の数学に対する姿勢は普遍だ。
「問題を作った人には、答えが分かっている。必ず答えがあると保証された問題を解くのは、そこに見えている頂上へ向かって、ガイド付の登山道をハイキングするようなものなのだよ。数学の真理は、道なき道の果てに、誰にも知られずそっと潜んでいる。しかもその場所は頂上とは限らない。切り立った崖の岩間かもしれないし、谷底かもしれない。」
今もなお、博士はファイティングポーズのままだ。

 そんな博士と家政婦の息子の絆は阪神タイガース。但し、博士の記憶にある阪神の江夏はもういないのだが。
博士を喜ばせようとナイターを3人で見に行ったり、博士の誕生日を3人で祝ったりする。
また、この少年が怪我をしたときや、熱を出しときなど、博士はわが子のように熱心に看病するのだ。
父親を知らない少年にとって、まるで本物の父親のようだ。
そんな3人に転機が訪れる。

 離れにすむ義理の姉から家政婦に解雇が言い渡される。なぜか。
博士の記憶喪失の発端になった交通事故の際、車に同乗していた義理の姉。
そして彼女が実は、博士自ら論文に「永遠に愛するNに捧ぐ。あなたが忘れてはならない者より〜」と書いて送ったその人だったのである。
忠実に博士の言いつけを守りぬいた義理の姉。

やがて、博士を施設に入れることになる。そのとき義理の姉は家政婦に向かって「私がおります。義弟はあなたを覚えることは一生できません。けれど私のことは一生忘れません」と言い切る。博士が「真実の直線はどこにあるか。それはここにしかない」と自分の胸に手を当てて「物質にも自然現象にも感情にも左右されない永遠の真実は目に見えないのだ」といった言葉は彼女の心にしっかり届いていた。記憶を超えたところにある彼の愛を信じる姿は美しい。

 ラスト、数学の教師になったことを報告に来た息子の√とベッドの博士が抱き合う場面。博士の胸にゆれる栄光の左腕投手「江夏豊」のカード。カードにゆれる江夏の背番号は28。28の約数は1、2、4、7、14、その約数を全て足すと28、すなわち完全数。
この瞬間に記憶を超えた永遠の真理によって完成された、愛の数式を見ることができる。

2004/1/27