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第31回
「沖縄の島守」

著者田村洋三
価格2800円
出版中央公論新社
発行年2003年

 江東区役所の前に「平和都市宣言」という文字の書かれたモニュメントがある。
区議会の全会一致で採択されて建てられた。戦中は東京大空襲によってその大半が焦土となり、戦後はビキニ環礁で被爆した第五福竜丸を捨てられた江東区としては当然だろう。
だが、国内においてもっとも悲惨な目にあったのは沖縄県だ。沖縄県民の戦没者は十五万三七七八名。
それだけの犠牲者を出しながら、戦後は一方的に米軍基地を押し付けられてきた。
そして、そのお陰で日米安全保障条約が成り立っている。

 今回紹介する作品の主人公は戦火の中で最期までその使命を果たし、二十万の沖縄県民を救った島田叡沖縄県知事と荒井退造沖縄県警察部長だ。二人とも四十代前半の働き盛りだ。しかも島田知事は在任五ヶ月あまりでこの偉業をなした。

 島田知事は逃亡した前知事の後を受けて大阪から赴任した。逃げたのは知事ばかりではない、副知事に相当する内政部長も逃亡、役場の職員でも逃亡するものが多かった。
そうした状況の中で、島田の妻も県知事の内命に反対した。
島田は妻に言った。
「これが若い者なら、赤紙一枚で否応無しにどこへでも行かなならんのや。俺が断れるからというので断ったら、俺はもう卑怯者として外も歩けんようになる」
非常時にあって民心をつかめるのは島田しかないというのが内務省の判断だった。
島田知事はつぎのように着任挨拶している。
「今は非常に緊迫した状態で、ちょうど壁に向かって馬を走らせているようなものだ。壁のところでうまくかわせられるか、そのままぶち当たって人馬ともに倒れるか。諸君と共にその辺をよく考えて、力を尽くしたい」

「全体に流れる本音、そして『一緒に』『共に』と言われた辺りに、この長官は自分たちを捨てて行かない、この人になら最後までついてける、と思わせるものがありました」
と部下は回想している。

 島田知事は緊急課題のひとつである県民の疎開をすすめるために、激務の間を縫って住民との接触にも努めた。
「当時の沖縄は官尊民卑の風潮が強かったから、勅任官の知事といえば天皇陛下も同然です。その地方長官が村へ来るのですから、住民は会場へ詰めかけましたねえ。おまけに長官の話がまた易しくて、気軽でしょ。みんないっぺんに好きになった」
会場を出てからも近所の民家を訪ねては気軽に話し、酒盛りをすることもあったという。
そうした島田知事の心中を側近は次のように分析する。
「いずれは共に死ぬ運命に立たされたもの同士の運命共同体意識だった。度々農村を行脚した知事は、県民がふびんでならなかった。支那事変以来八年、戦勝へひたむきな努力は、日夜続いていた。しかも国策をいささかも疑わない心情がいじらしかった。特に防衛軍が駐屯してからの県民は飛行場建設、陣地構築、食糧増産に火事場働きの毎日だった。だが、それに報いるものは敵の上陸戦であり、集団玉砕ではないか。いずれは死んでいくであろう彼らに、少しでも楽しい思いをさせてやりたかった。それが島田知事の親心だった」
だからこそ、島田知事のことを証言する人はみな敬愛の情を示すばかりなのだ。
 沖縄の地上戦は圧倒的な物量を誇る米軍の前にして、勝ち目は無かった。
ついに首里を放棄し戦線を後退せざるを得なくなったとき、島田はこれ以上の兵員、住民の被害を食いとめるために首里放棄に反対する。これ以上の戦いは無意味であると判断したのだ。しかし、軍部にその意見は入れられずに、沖縄戦は最悪の事態を招く。
荒井警察部長は内務大臣宛に以下の電文を打っている。
「六十万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク 此ノ決戦ニ皇国破レテノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ此ノ部民ト相共ニ敢闘ス」
この後、海軍の大田少将の打電した「沖縄県民斯ク戦エリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」は有名だ。この電文は島田知事と荒井部長の強い責任感と人徳の反映であろうと作者は書いている。

 この作品で日本兵によって沖縄県民が銃殺される場面が出てくるが、驚いたのは米軍から救出された沖縄県民がアメリカ兵に「日本ノ兵隊 生カシマスカ 殺シマスカ?」と聞かれ、すかさず一斉に「殺せ、殺せ」と答えたことだ。壕内で避難民を死に追いやった日本兵はすでに沖縄県民の敵だったのだ。
天皇の軍隊は国民を守る軍隊ではなかったと経験している沖縄は、米軍基地が自分たちを守るものでないことも知っている。
島田知事も心得ていて、女子職員にささやいている。
「君たち女、子どもには(米軍は)どうもしないから、最後は手を上げて出るんだぞ。決して(友)軍と行動を共にするんじゃないぞ」

 どうして島田知事は投降しなかったのか?
新聞記者が尋ねている。
「知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、出られても良いのではありませんか」
「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね?沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう?」
「それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ。これは、きっと、末代までの語り草になると思うよ」

 「後ろから拝まれる」偉材といわれた島田知事の座右の銘は「断じて行えば鬼神もこれを避く」であった。そして「軍は県民も玉砕だ、などといっているが、私はなんとしても県民を守らねばならない」という強い信念を、島田知事は最後まで貫いた。
 できることなら、多くの日本中の若者に島田知事と荒井警察部長の敢闘の様子を知ってほしい。
そして、一日でも早く沖縄の苦悩が取り除かれることを祈っている。

2004/8/4