下町探偵団ロゴ万談ロゴ下町探偵団ハンコ
東京下町Sエリアに関連のある掲示板、コラム・エッセイなどのページ
 トップぶらりグルメくらしイベント交通万談 リンク 


元さんのとっておき
■第23回 『たまやーかぎやー』
01年07月10日
隅田川の花火も近くなってきたことだし、今回は花火にまつわるエピソードの話です。
花火があがると「たまやー」「かぎやー」って掛け声をかけますが(最近じゃそんなこと言わないのかな)、これはどこから来てるのでしょう。まあ、ご存知とは思いますが、それぞれ両国の花火を製作していた職人(会社?)の名前です。でも優劣をつける訳じゃないんですが、玉屋があって鍵屋があるって感じしませんか?ほら「たまやー」「かぎやー」って玉屋のが先に言うでしょ。ところが実は鍵屋のが元々、格が上なんですよねえ・・・はて、なんででしょう。

江戸時代、隅田川では屋形船を使った船遊びが盛んでした。その余興として花火を打ち上げるようになります。ま、この頃の花火はまだお金持ちだけが楽しめる道楽の域だったんですね。多分規模も小さかったんでしょうね。
ところがある時、飢饉と疫病で結構江戸庶民にとっては悲惨な年がありました。そんな庶民の心を慰めるためにその年の川開きの日に両国で盛大に花火を打ち上げました。これが両国の花火の正式な始まりです。その後、川岸の船宿や料理屋が客寄せのためにお金を出し合って毎年のように花火を打ち上げるようになっていきます。最初の年で、甘い汁を吸ったんで味をしめちゃったんですかね。・・・そういえば現在の隅田川花火って誰がお金出してるんだろう。
当初、花火を打上げていたのは幕府御用達を務めていた鍵屋弥兵衛でした。これが「かぎや」ですね。その80年後、鍵屋から分派したのが玉屋市郎兵衛です。「たまや」ですね。その後玉屋は勢力を伸ばし、鍵屋と二分するほどになっていきます。ま、アデランスとアートネイチャーみたいなもんだったんですね(かえってわかりづらいかな)。そして、鍵屋は両国橋の下流、玉屋は上流を受け持って互いにその技を競ったそうです。一応テリトリーがあったんですね。現在も第1会場と第2会場があるけれどやっぱりそれぞれ受け持ちの花火会社ってあるんでしょうか。最も現在の会場は第1会場がメイン、第2会場がサブと役割分担が決まってるようですが・・・
しかし、玉屋はある時、失火によって火事を出してしまい江戸所払いとなって廃業しちゃいます。なんかそれぐらいでって思うでしょうが、江戸は火事って言葉に敏感ですからねえ。明暦の大火をはじめ江戸市内は幾度となく大火事に見舞われています。江戸城まで焼けちゃう火事とか、江戸の半分ぐらい焼けちゃった火事なんかも何度もあったんです。そうなるとやっぱりお役所も火事には神経を尖らせるようにならざるを得ないですよね。日本の家屋は紙と木できてますんでよく燃えるんでしょうねえ。もう、「火事と喧嘩は江戸の花でい!!」なんて喜んでる場合じゃありません。ホントに切実な問題です。ところで先ほどでて来た「明暦の大火」、この火事は下町と密接な関わりのある火事なんです。その話はまた次の機会にでも。
話が脱線しましたが、結局玉屋の寿命はわずか30年程度で幕を閉じてしまいました。それなのに玉屋の人気は衰えず、その後も花火の時、「たまやー」の掛け声は続きます。粋な江戸っ子は幕府御用達の鍵屋より、庶民的な玉屋の方に親近感を感じていたためというのが大きな理由らしいです。廃業してもまだなお熱心なファンがいたってことなんでしょうかねえ。なんかちょっといい話ですよね。

江戸庶民のための両国花火。その製作者の中で格は鍵屋の方が上だった。幕府御用達だったのだから技術もおそらく高かったんだろうと思いますよ。しかし本当に庶民に愛されていたのは玉屋だったのかもしれません

でもなんだかんだと言っても夜空に丸く花開く花火は「鍵」屋というより「玉」屋のほうが文字からくるイメージとしては合ってるような気がしませんか?

江東区、墨田区、中央区、台東区のネットワークサイト