■第66回 『下町は江戸?』 |
03年07月8日 |
- 人と話していて最近よくこんな事を言われます。江東区、墨田区は江戸じゃないよねって。
- 確かに隅田川の東側は、最初の頃江戸とは言わなかったようです。例えば両国という地名がありますよね。名前の由来は隅田川に架かる両国橋から来ています。隅田川の東側が下総(千葉)、西側が武蔵(東京)、両方の国の境にあったこの橋は両国橋と名付けられました。そういう風に考えれば江東区、墨田区は下総であって江戸ではないっていうことになります。
- ただ、こういう括りって結構難しいんですよね。
- 江戸ってのも範囲が決まっているようで随分とアバウトなところがあるんです。
- 現在の都道府県みたいにちゃんとした県境でも決まってればわかりやすいんでしょうが、そういうものもなかったんですね。と言うか作れなかったんです。江戸自体がどんどん拡大していったから。
- 江戸時代、江戸の街の人口はどんどん増えていきます。確か江戸時代中期には、江戸という街は世界で一番人口の多い都市になっていたんじゃなかったでしょうかねえ。
- まあ、それぐらい大きな街になっちゃえば手狭になっちゃいますからね。どんどん街としての範囲を広げざるを得ないんですよね。
- ちゃんと決まってないから、その後、人によってその捉え方がどんどん変わっていっちゃいます。
- 例えば東京と言ったらどこからどこまでのことを想像しますか。
- まあ正式には東京都のことを言うんでしょうね。でも東京イコール23区みたいにイメージする時ってありません?
- 逆に東京近辺を東京って言う時もありますよね。例えば北海道の人が東京へ行ってくるって言った時、千葉あたりに行くとしても東京って言っちゃう場合ありますよね。まあその場合、正確には東京方面という言い方が正しいんでしょうけど。
- まあそんな訳で範囲の解釈も様々になります。
- 行政でも管轄ごとに考え方が違ってきます。
- 例えば、江戸の街というのは解り易く言うと、江戸城が真ん中にあって、その周りに武家屋敷、その周りに町人の住居がありました。
- 一番外側の町人の住居を管理してるのは町奉行です。町奉行の考える江戸の範囲は町人の住居までの範囲です。
- また、江戸の市街地を出て最初の宿場を四宿と言いました。甲州街道の「新宿」、中仙道の「板橋」、奥州街道の「千住」、東海道の「品川」で、このあたりまでを江戸と考える部署もありました。
- 他にもいろいろな捉らえ方があったようですよ。
- でもある時、幕府もちゃんと江戸の範囲というものを決めとこうって思ったんですね。
- 統一規格として「江戸朱引図」という地図を作ったんです。
- この朱引図には、赤い線(朱引)と黒い線 (墨引)で江戸の範囲が引かれてあります。墨引で示された範囲は大体、町奉行所支配の範囲あたりを表しています。朱引は先程の四宿あたりまでです。朱引の方が墨引より範囲が広いってことになりますね。
- 朱引の範囲は大体、東は江東区の大島あたり、西は渋谷区の代々木上原あたり、南は大井町駅あたり、北は荒川区の尾久あたりまでです。
- 墨引の範囲は大体、東は錦糸町あたり、西は渋谷駅あたり、南は品川駅あたり、北は巣鴨あたりまでです。
- 朱引だと江東区、墨田区は全て範囲内に入ります。墨引だと西側の半分ぐらいが入る事になります。
- さて結局、江東区、墨田区ってのは江戸の一部なんでしょうか。
- 墨引の外側なんてほとんど野っぱらみたいなもんだったでしょうから、市街地として江戸を捉えれば江東区、墨田区は半分だけ江戸ってことになるんでしょうか。
- ただ一般的には朱引の方が江戸の範囲ということになってるようですので、江東区、墨田区は全て江戸というのが定説みたいですね。
- まあ、私に言わせれば、時代によって、考え方によって、答えはいくつかあるってのが正しいような気がしますがね。
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