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下町音楽夜話

◆第7曲◆ 熱い夏には・・・
2002.07.10
 また夏がやってきた。昔は夏が大好きで外の暑さにめげもせず、飛び回っていた。パブロ・クルーズなどという名を聞くと、潮の香りが蘇ってくる世代だ。決してビーチボーイズではない。そして、もちろん思い出される光景はビッグ・ウェンズデイのサーフィンのシーン。夏の過ごし方のバイブルだった。

 下町界隈は海が近いと言ってもこういう雰囲気はない。まだガキだった頃、親父に連れられて釣りをしに来たときは、隅田川を渡ったとたんに空気が変わったことに、親父よりも敏感に反応していた。もともと船乗りだった親父は、もちろん海のことに関しては、自分より何百倍も詳しい。しかし親父はカナヅチだから、海の底のことは知らない。ダイビングはカナヅチでもできるのだが、まあやらないだろう。

 それまでは近場の海でしか潜っていなかったが、1988年の夏に、インドネシアの海に初めて潜った。例えば西伊豆でも、原色の体をした魚を見ることができることは意外に知られていない。伊豆周辺は火山のせいか、暖流のせいか、きれいな色の魚が結構いるのだ。興味がないので、魚の名前は全然わからないが、目の当たりにすると流石に感動する。まあ海の底ではアジが泳いでいても、きれいに見えるので感動するが。ただ北の海にはあまり潜りたいとは思わない。赤道の少々南の島で泊まっていたホテルは、当時インドネシアの迎賓館を兼ねていた超一流といわれるホテルだ。自分が泊まった部屋の宿泊客リストには、日本の首相の名前もあれば、ヨーロッパのプリンスの名前まであった。日本人が安心して泊まれるところはあまりないと言われていた時代だ。また超一流と言われるホテルでも、風呂場にはヤモリが一杯いると聞かされていた。実際に、少しはいた。そのホテルは、プルタミナというインドネシア最大のコングロマリットが所有していたが、今はもう無いはずだ。それでも彼の地に行きたかったのは、ガムランが聴きたかったのだ。この楽器の音色が大好きで、インドネシアの政情が不安定な時期に、観光客が激減してしまい、ミュージシャンが困窮しているということで、救済のために東京音楽大学がサポートして作ったCD4枚組などというものまで購入して愛聴している。

 あれは明らかに、ホテル・スタッフの小遣い稼ぎだった。代金の交渉も打ち合わせもすべてがプールサイドで行われた。ひとり1万円で装備一式も貸してもらえる上に、ダイビング・ポイントまで船で連れて行ってくれるというので、まあまあ安いかなと思った。ライセンスを持っていなければ、簡単なレクチャーを受けてインストラクターと一緒に潜ればよい。割と安易に申し込んでしまったのだ。

 当日現れたインストラクターは、英語も日本語も全く通じなかった。そして、ポイントに向かう車に乗り込む頃から、ムクムクと不安が込み上げてきた。あまりにもボロい車なのだ。当然ホテルのものではない。1時間ほど走り、着いたところは聞いたこともない名前の村のビーチで、全く言葉の通じないこどもたちが一杯待ち受けていた。船で20分ほどのところで、アンカーを下ろし、ダイビングは始まった。・・・普段の数倍の不安と共に。視界ゼロに近い中、6メートルほどの海底でじっとしていると、ときおり魚が見えた。そして30分もすると、インストラクターとも打ち解けた。身振り手振りで意思は通じるもので、結構海底散歩を楽しめた。とくに海の底では、言葉が通じるか否かなどは全然関係ない。言葉は、一つのツールでしかないのだ。香港のポン引きのお兄さんはそれこそ何ヶ国語も話す。外国語が話せるからといって、自慢できたり羨ましがられたりするのは、多分日本だけだ。

 水に入って40分ほどたった頃、インストラクターの身振りで上がれという指示がきた。船に戻ると連れの一人が倒れていた。荒い波で揺られて、ダイビング中に吐いてしまったのだ。すぐに意識は戻ったが、危ういところだった。皆、無言のままホテルに戻った。自分は疲れてしゃべることができないくらいだったが、インストラクターはもっと不安そうだった。ホテルに戻り、無事であることを確認し、日本人的かなとも思ったが、少し余分に代金を渡し、「ハヴ・サム・ドリンク」と言って、飲むポーズをして見せた。インストラクターはようやく安心したのか、表情がゆるんだ。自分は、なんともいえない疲れにつつまれ、頭の中では何かが終わってしまったような気がしていた。言葉が通じない相手に、文字通り命を預けたりできたのは、もちろん若さゆえだ。今ではもう、ダイビングをやろうという気力すらない。

 夏には、どうしてもボサ・ノヴァが聴きたくなる。ゲッツ/ジルベルトの「イパネマの娘」は、日焼けして火照った体の熱を冷ますには、どんなローションよりも効き目がある。このアルバムが録音された1963年、どんなに暑い夏があったかは知らないが、この曲がジャズの世界を中心に涼しい風を送り込んだのは事実だ。この一枚のアルバムは、音楽のジャンル分けなど意味がないことを、さり気なく伝えてくれる。そして夏の夜の気だるさが心地よいと思える、心の余裕のようなものを教えてくれる。都会に居ながら、ビーチの木陰の涼しさが味わえるのだから、安上がりな一枚とも言うべきか。

 この曲の歌声の中にガムランの響きを感じるのは、自分だけかも知れない。ただこういったデ・ジャ・ヴにも似た感覚は、内輪受けのギャグが面白いように、当人にとっては相当心地よいものなのだ。