- ニール・ヤングがやってくる。クレイジー・ホースを連れてくるというから、今回は日本武道館に足を運んでみる気になったが、自分はニール・ヤングのコアなファンではない。バッファロー・スプリングフィールドやCSN&Yなども少しは聴くので、もちろん嫌いではないが、全てのアルバムを集めようというコレクター心は全くくすぐられることはない。好きな曲が収録されているアルバムが数枚手元にあるが、これで十分なのである。ニュー・アルバムがリリースされたからといって、必ず買いに行くようなこともしない。それでも30年来聴き続けている。好きな曲は非常に好きなのである。
- こういう人のライブに行くことの不安は、自分の好きな曲をやってくれないかも知れないということだ。そうなると最低の気分で帰ってくることになるので、不安は非常に大きいのである。抽選で購入権が当ったチケットは、アリーナ席のしかも前から3列目。こんなにいい席で見るほどのファンではないのだが、という気分になってしまう。周囲がコアなファンだらけの可能性があるアリーナの前の方で、ずっと座って観ていたら怒られるかなとも思うので、誰か一階席か二階席の最前列あたりと交換してくれないかなあ、と思っている。席がよ過ぎるのは、実に困ったものである。
- もともとフォーク畑出身の彼は、高度なアレンジを施した曲は作らない。ワンパターンとも言うべき単純な曲構成、シンプルなフレーズの繰り返しが、ツボにはまれば妙な高揚感まで伴って、これは素晴らしいということになる。しかし、しばらくすると飽きる。久しぶりに聴くと、やはり素晴らしいと感激する。しかしワンパターンだなと呆れ、またすぐに聴かなくなってしまう。これを30年も繰り返し、やはり「孤独の旅路(ハート・オブ・ゴールド)」や「ライク・ア・ハリケーン」などの楽曲は素晴らしいと思っている。この曲を感情こめて歌えるときっと素晴らしいだろうと思う。シンプルであるからこその素晴らしさは、本当にツボにはまると一生ものの宝物になる。しかし普段は聴かない。まあ音楽なんてそんなものである。
- ニール・ヤングの音楽は、アルバムによって随分異なる。フォーキーなものがベースにあるのは共通しているかも知れないが、例えばノイジーでパンキッシュな「マイ・マイ・ヘイ・ヘイ(アウト・オブ・ザ・ブルー)」はセックス・ピストルズのジョニー・ロットンに捧げられた曲だということだが、激情を叩きつけるようなその演奏は、とてもフォークをやっていた人間の曲とは思えない。自分は大好きな曲なのだが、アコースティック・ヴァージョンの方(「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ(イントゥ・ザ・ブラック)」)は、吐き気がするほど嫌いだ。ただし微妙に違っている歌詞は、また別の意味で面白い。
- ニール・ヤングの場合、歌詞を抜きには語れない。近年はボブ・ディランと比較されること自体あまりないかも知れないが、彼の心の中には、カントリー寄りに方向を転換させた、ボブ・ディランに対する批判が溢れているようだ。「マイ・マイ・ヘイ・ヘイ」で歌われた「錆びるなら燃え尽きた方がいい」という歌詞を実践し続け、常にマイペースでやりたいことをやり、流行なんぞには一切左右されないこの男こそが、異様に筋金入りなのだ。
- 1990年代以降も、ポスト・グランジ世代から高く評価されていることは実に納得がいくのだが、音楽的にはフォーク畑の人間に聞こえる自分にとっては、フォークもロカビリーも何でもありのニール・ヤングと、「アメリカの心」的なカントリーに近づいて行ったボブ・ディランが、さほど違って聴こえる訳ではない。さてさて、実に困ったものである。
- ニール・ヤングは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの犠牲者に捧げられたチャリティ番組の中で、ジョン・レノンの「イマジン」を歌っている。ジョン・レノンが平和主義者だったからかと短絡的に考えていたが、「国や宗教が存在しない世界のことを想像してみなよ」という歌詞が含まれるこの曲は、アメリカでは放送自粛曲になっているのだそうだ。なるほど、ボブ・ディランとは方向性が全く違うわけだ。
- 英語を母国語とするわけではない日本で、すなわち言葉で伝えられるかどうか甚だ疑問の残るこの国で、ニール・ヤングは一体どんなライブを聴かせてくれるのだろうか。政治集会のようなコンサートは遠慮したいが、そうはならないだろう。彼のメッセージはさり気ないのだ。これまで彼が発したメッセージを、我々日本人がどれだけ理解しているか、実はそこが今回のコンサートでは一番大きな、困ったものなのである。
- 申し訳ないが今回も、下町で発信することの必然性があまりないかも知れない。そもそも、下町を愛する人間が作っているサイトで、また下町の情報を必要とする人間が訪問するであろうサイトで、こんなことを書いても意味ないことは十分承知の上なのだが、あえて書き続けている。こういったことは発信し続けることが大事だと思うからなのだが、しかし自分の発信は少々さり気なさが足りない気もする。反省がてら、少しその辺をニール・ヤングに学んでこようと思っている。長い目で見たときに、そのさり気なさが重要なのだろうとは思うのだ。なぜなら、そうすれば燃え尽きることもないが、錆びることも決してないからである。
|
|