師走に入って忙しさが加速したところにノートPCの不調にみまわれ、時間を浪費するよりはと思いまたまたPCを購入してしまった。ハードディスクを持たない薄型軽量のVAIO−Xを、オンラインで自分の好みにカスタマイズして注文したら、10日ほどでやってきた。iPadも気にはなったが、どうにも直接モニターに触れることが好きではない上に、追随製品もどんどん出てきており、今回は見送った。一年もすれば、こういったツールを取り巻く状況は一変して全く違った世界になっているのであろう。ドッグ・イヤーからマウス・イヤーといわれ、製品のライフスパンも短くなっているようだが、よく開発が追いつくものだ。エンジニアの皆さんには相当負担がかかっていることだろう。ご苦労様。
通勤時間がさほど長くない自分はモバイラーには決してなり得ないが、700gに満たない軽量のノートPCを持ち歩いてみて思うに、すっかり自分の生活に入り込んでしまったことを再認識した。またノート型のPCはもう時代遅れの匂いがし始めたような気がしたものだ。世の中様々な携帯端末がこれでもかとばかりに存在している現在、やれアンドロイドだガラパゴスだと購買意欲をそそる広告が各種メディアで展開されているが、若者の消費そのものが萎んでいる時代にこれでは、高度な技術を注ぎこんで開発しても、望んだほどの結果が得られるとは思えない。これもアップルの功罪か。最近流行りの電子書籍と全くヒットしなかったタブレットPC、いったい何が違うというのだ。VAIO−XはiPadより軽いことがせめてもの言い訳かもしれないが、おじさんはフタ付きがいいというだけのことだ。
先進性を突き詰めていくとやたらと疲れる。当然ながら一歩でも前に進もうとして運動量が増えるし、最先端だと思っていたものが明日には時代遅れになっているかもという不安が常につきまとうわけだから、本当にしんどい世の中になってしまった。これで格差だ勝ち組負け組だと言われたところで、自分などは好きに言ってろと思えるからいいが、若い人たちにとっては深刻な問題なのかもしれない。あまり悩みながらダッシュするような無理ばかりしていると体によくないから、息抜きも必要ですよと言いたくもなる。こういう時代だからこそ、音楽も重要な意味を持つとも言える。
先般フランチェスコ・トリスターノの新盤がリリースされた。前作から随分かかってしまったが、納得がいく作りこみはできているようだ。フランスのオルレアン20世紀音楽国際ピアノ・コンクールでも優勝経験があるというクラシック畑のピアニストだったが、最近はテクノ・シーンの有名どころとのコラボレーションが続いており、すっかり転向してしまったようだ。ヒット作「ノット・フォー・ピアノ」では、デトロイト・テクノの重鎮デリック・メイの「ストリングス・オブ・ライフ」を猛烈なテクニックのピアノで再構築してみせたり、ベルリンのテクノ/トランス・シーンでは伝説的とも言える人気を博したモーリッツ・フォン・オズワルドなどと一緒に仕事をしたりしている。そして最新盤「イディオシンクラシア」ではついにデトロイト・テクノの大物プロデューサー、カール・クレイグを迎え、彼の所有するレーベルのスタジオで録音するところまで行ってしまっている。もうそれだけで必聴盤である。
予約注文しておいて届けられた盤には、3枚組みのポスト・カードが添えられており、アイドルか?と突っ込みたくなる有様だが、ひょっとして欧州ではそういう売り方もできるのだろうか?日本でどれほど人気があるかは知りようもないのだが、如何せん彼の音楽性や先進性を理解できる人間がどれだけいるのかというところが、そもそも大いなる疑問なのである。クラシックとテクノを結びつけるというのは「言うは易し」だろうが、両方を好んで聴いている人間は皆無だ。自分のような悪食は気分でどちらもいけるが、それでもクラシックを聴く年と聴かない年がはきり分かれているといった具合で、両方を融合するということはあり得ないとすら思う。しかし、それが実現し、しかも恐ろしいほどの高みで昇華しているのだから堪らない。…いったいどういう人間が聴くのやら。
この盤、出だしの「マンボ」1曲で自分などはノックアウトである。恐ろしく美しいメロディ、斬新なリズム感覚、それが同居するだけでも素晴らしいのに曲の構成も非常に練りこまれており、文句なし今年のナンバー1である。タイトル曲「イディオシンクラシア」は、ダンサブルな構成にどこまでものめりこみそうなディープな曲である。繰り返し聴いていると幽体離脱しそうな気がしてくる。iPodでこの曲を聴きながら夜の街を歩いていたら、「これはかなりやばいですよ」などと独り言をもらしてしまった。そしてその瞬間、「おっとネットだ、ネットで検索しなくては」と思い、その場でVAIO−Xを操作してみた。その結果はまたいずれ書くとして、この感覚、すなわちこの即時性、そしてボダーレス感がフランチェスコ・トリスターノのような先進的な人間に共通の感覚なのではと思ってしまったのだ。つまりは旧体制の若者たちも、ボダーレスにつながっているということに他ならない。