映画「黄金のメロディ マッシュル・ショールズ」を観てきた。正直なところ、非常に残念であった。映画としては、まあまあ面白かったので許せるといえば許せるのだが、如何せん作りが粗い。自分が求めていた内容とあまりに違うというか、「タイトルに偽りあり」とでも言いたい心境である。後半に少しはマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオのことは出てくるが、ほぼ全編にわたり、フェイム・スタジオとその創設者リック・ホールについてのストーリー展開になっているのである。確かにマッスル・ショールズにあるフェイム・スタジオから分離独立してできたのがマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオであるから、それでもいいと言えばいいが、自分の場合、フェイム・スタジオは歴史だけ触れておいてくれればよくて、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオについていろいろ知りたかったのである。
とにかく、予想を裏切られただけでなく、期待していたあたりのミュージシャンが少ししか出てこないので、思い切り落ち込んでいるのである。ズバリ自分にとってマッスル・ショールズといえば、ダン・ペンであり、エディ・ヒントンなのである。リズム・セクションの活躍が、まるでパラパラめくりのように端折られているあたり、飛び上がりそうなほど残念だったし、怒りすら覚えた。そもそも、何故U2のボノが何度も出てきてしゃべっているのか、そのこと一つを挙げても粗さが気になるというものだ。「魂の叫び ラトル・アンド・ハム」があると言ってもメンフィスのサン・スタジオで録音したものだし、別にアイルランド人には語る資格がないとは言わないが、キャスティングがちょいと違いませんか?といった印象だ。
たとえば、現役のミュージシャンのインタビューを収録するにしても、ボズ・スキャッグスとか他に相応しい人物がいるだろう。彼のファースト・アルバムなど、インナー・スリーヴはまさに映画に出てきたメンツの写真が溢れていたし、同盤のハイライトでもあるデュアン・オールマンの名演を捉えた「ローン・ミー・ア・ダイム」について触れないなんて反則ものだ。また、ポール・サイモンに関しても不満と言えば不満だ。「僕のコダクローム」をバックに流しながら、マッスル・ショールズ・リズム・セクションを黒人と勘違いしていたことが紹介されていた。確かにおマヌケな話ではあるが、彼が「ひとりごと − ゼア・ゴーズ・ライミン・サイモン」を録音したことで、このスタジオの素晴らしさを他のミュージシャンに広めた功績は大きかったはずで、白人ばかりのリズム・セクションがいかに黒っぽい音を出していたかという逸話として紹介するだけでは、あまりに言葉足らずではなかろうか。
確かにサザン・ソウルの名盤もいっぱい作られたマッスル・ショールズだが、自分にとってはスワンプ・ロックの聖地なのである。サザン・ロックと括った場合は、テキサスの髭ジジイやカプリコーン・レーベルのむさ苦しい男連中が語らなければ話にならない。そういう意味では、レイナード・スキナードの逸話にしても、貴重な映像が観られたことは嬉しかったし、目頭が熱くなる思いもしたが、やはり言葉が足りない。もっと湿気を帯びたスワンプ・ロックを語るべき人物は他にもいるはずだ。思うに、ダン・ペンの「ドゥ・ライト・マン」やドン・ニックスの「ホーボーズ・ヒーローズ・アンド・ストリート・コーナー・クラウンズ」や、コーラス隊のジーニー・グリーンあたりに触れないで語れるスタジオではないはずだ。
例えば、第626曲「時代の変化を楽しもう」の後半でご紹介した名曲「イッツ・ノット・ザ・スポットライト」にしたって、マッスル・ショールズを語る上では欠かせない曲だと思うのである。キャロル・キングの元夫にして名曲を量産したソングライティングの相方、ジェリー・ゴフィンの名盤「イット・エイント・イグザクトリー・エンターテイメント」もマッスル・ショールズで録音されたものだ。「イッツ・ノット・ザ・スポットライト」のソングライティングの相方、バリー・ゴールドバーグの「バリー・ゴールドバーグ」もスワンプの大名盤と言われているが、これだってマッスル・ショールズ産だ。そして同曲を取り上げて広く世に知らしめたロッド・スチュワートの「アトランティック・クロッシング」だって、マッスル・ショールズ録音なのだ。ロッドが大西洋を渡ってまでして求めた音は、マッスル・ショールズにあったのだ。3つのヴァージョンを持つこの曲など、あの連中でなければ出せない音だということの証だろう。他にも語り切れないほどの名盤が量産され、多くの逸話の宝庫でもあるスタジオについて、リック・ホールひとりの人生を中心に据えて語れるものではないはずである。大変貴重な映像が満載ではあるが、私は満足できなかった。