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下町音楽夜話

◆第27曲(1)◆ 現代美術
2002.12.28
 自分は、頻繁に外国人に話し掛けられる。多分通訳をやっているせいで、大方の日本人と違って目線を逸らさないからだと思う。何度か経験しているのだが、雑踏の中で遠くから手招きで呼び寄せられ、道を訊かれたことには驚いた。以前にどこかでお会いしていて失念しているだけだと失礼なので、近寄っていってしまったのだが、やはりただの旅行者だった。しかし笑えたのは、相手が自分を日本人だと思っていなかったことだ。どう見ても日本人にしか見えないのに少々不思議だった。まあ海外にいてもよく道を訊かれる人間ではあるので、最近は慣れたが、どうも不思議な気持ちは拭えない。

 先日、清澄通りを歩いていたら、約20人ほどの外国人だけで構成される若者の集団に出くわした。そのうちの一人に道を訊かれたのだが、結構流暢な日本語で、丁寧語まで完璧に使いこなしていたのには驚かされた。さらに驚かされたのは、手に御朱印帳を持っていたことだ。いまどき日本人の若者で御朱印帳の存在を知るものがどれだけいるだろうか。まあ似たものとして、スタンプラリーというものが存在するから趣旨は理解しやすいのだが、本当の由来までは説明できないのではないか。特に朱という色の説明がまた難しい。そのときはイッツ・ライク・クリムゾンと言ってしまったが、かなり違っていたようだ。赤緑色弱の自分は、赤が特に苦手でひどい時はワイン・レッドと茶色の区別もつかないが、クリムゾンという色だけは、識別は出来ないが何とか理解していたはずなのだが。

 江東区の中央付近、都立木場公園に北隣して都立現代美術館は建っている。この施設のおかげで江東区を訪れる外国人は相当増えたと感じている。洒落た外観以上に中身は充実していて、知的な遊びができる空間となっている。自分としては、かけがえのない大事な空間だ。ただ他人には現代美術館が好きだとはあまり話さない。結局のところ、理解してもらえないからだ。アートの面白さは、理解できる人間が理解して共感できればもうそれでいいのかも知れない。特に現代美術の場合、無理やり「これ面白いでしょ」といっても変人扱いされるだけだ。あるべき場所にあってこそ、美術品として扱われるが、どこかの裏庭にでも置いてあれば、とても美術品として扱ってもらえないものもある。理解する人間が理解し、あるべき時に、あるべき場所に置くからこそ評価されるこういったものは、さほど美術の素養のない、いわゆる素人が見て素晴らしいと思える、歴史的に評価の固まっている伝統的なアートよりも怪しい魅力がある。人知れずその怪しさに気がついてしまった時に、私的な楽しみの極みはとてつもなく大きな喜びを与えてくれる。

 音楽というものも、本来は至極私的なものであって、自分が楽しければそれでいいのだ。したがって、他人と時間や空間を共有するコンサートのようなものは、ある種イベント的なものとして全く別物ととらえている。以前にもライブが大好きだということを書いたが、その反面全く他人と楽しみを共有しないで、一人で楽しんでいるものもある。それはプログレッシヴ・ロックあたりの音楽で、特にキング・クリムゾンは、自分の周囲に面白さを理解してくれる人間がいないので、そういう理由からも一人で密かに楽しんでいる。もちろんこういった音楽を専門に扱うレコード・ショップもあるので、理解する人間も多く存在するはずなのだが、自分の場合はあくまでも孤独に楽しんでいるということである。

 ただこの人たちは、CDのリリース頻度がおそろしくハイペースで、フトコロのうすら寂しい自分のような音楽ファンにはこたえる存在なのだ。1990年代以降にリリースされたCDだけで優に50枚は超える。その大半がライブ盤であり、圧倒的なテクニックとともにジャズも顔負けの緊張感を伴ったインプロビゼイション、つまり即興演奏が楽しめる。あまりメロディアスなものではないので、集中的に聴いていると、狂ったかと思われかねない類のものではある。そういう意味では、モダン・アートの資格十分である。

 そして知的な遊びとして、このキング・クリムゾンのリーダー、ロバート・フリップが発信しているものを理解しようとする行為は非常に楽しい。音楽という表現手段としてのアルバム・リリースも当然そうだが、ウェブ・サイトも凝ったつくりになっているし、記録としては緻密すぎる彼の公開ダイアリーは、読むのは苦痛であるが、妙な楽しさもある。恐ろしく気難しい人である上に、優れたギタリストであることは十分に認める。事実、直近の来日公演の折り、もう一人のギタリスト、エイドリアン・ブリューのアンプが調子悪く、音が途切れたことがあったのだが、その瞬間、聞こえてきたのは、ブリューのトリッキーなギター音に隠されていたフリップの早弾きのバッキング・ギターであり、リードの欠落を補うために両方のフレーズを取り混ぜて弾いてみせたとんでもないものだった。マス・メディアが嫌いで、ステージ上でもほとんど口を開かないこの人の凄さを垣間見た瞬間だった。そして自分自身のことのように嬉しい気分になった。