- 下町の夏の風物詩に高橋の川施餓鬼がある。灯篭流しと呼んだほうが通りがよいだろうか。盆の季節に日本各地で行われる水難者やご先祖様の供養のための宗教行事だが、東京大空襲で多くの人々がこの川で亡くなっていることでもあり、実にこの土地ならではのものとも思われる。毎年7月下旬に行われ、涼をよぶ情景が風流というイメージがあるのか、ここ数年新聞でも取り上げられ、観光的な受け止め方をされているようである。こういった古くからの慣習が、水辺という土地柄を反映していることがなんとも嬉しくなる。別に強い郷土愛があるわけではないが、地勢がもたらした歴史的行事のように思えてならないのである。
- 五木寛之は、人の一生を水に例えている。元気の海に生まれ、雲に上り、地に降り、川として流れ、再び海に還っていくとする。「大河の一滴」という短編で、人間というものの存在の小ささを再認識させ、改めて自然の偉大さと大切さを教えてくれる。自分は特にこの作家のエッセイが好きでかなりの分量を読むのだが、背景にある哲学的な部分や宗教的な感覚を抜きには語れまいが、それでもそれを抜きにしても、十分に生きることに前向きになれるし、日々の活力を容易に見出すこともできる。生き方の研究をしているわけではないが、様々なライフスタイルがある中で、自分にあったものはどういうものかを考えることは、結構重要な作業である。学校では教えてくれないが、読書などから個々が学び取るべきと言い切ってしまうことも、少々疑問に思う。自分が生きる社会としては、少々物足りないものを感じてしまうのだ。
- 江東区内を流れる運河を眺めていると、さまざまなことを考えさせられる。水は人に多くのことを語り、教えてくれる。命の源であるだけでなく、水のある風景と水のある暮らしが、人に物質的な豊かさとともに、精神的な豊かさももたらしてくれると思うのである。思想家がいたとして、砂漠に暮らすのと水辺に暮らすのでは、当然ながら導く帰結が違ってしまうのではなかろうか。われわれは身近にある水から受ける恩恵をもっと強く認識すべきである。もちろん山里の緑はないが、単純に比較しても補って余りあるように思う。水のある景色は実にいいものだ。
- 特にある程度ボリュームのある水が身近にあることは、そこに暮らす人間の感覚に大きな影響があるだろう。水害までいかなくとも、普段から水に対する畏敬の念を持って暮らすことは、非常に自然なことのように思えるのである。江東区界隈の川や運河に関しては、昔は頻発した水害を防ぐために、治水事業が重要視された。また近年は外郭堤防も完成し、治水から親水の段階に入っている。しかしコンクリートの護岸を切り崩すまでは至っておらず、水に親しむにしてもなかなか水面には近づけない。そのことが実は非常に残念でもある。
- 昔は河岸に柳はつきもので、夏ともなれば丑三つ時に白装束の女性でも立たせておきたいような風情であったろう。柳は強く根を張るので、護岸に植えるのに向いていたのだろうが、コンクリートやアスファルトで地表を覆ってしまっている状況では、根が表層を持ち上げたりするので、最近は水面にそよぐ柳はあまり見かけなくなってしまった。万一、子供が水に落ちた場合、切り立ったコンクリートの護岸と、つかまるところのある柳の根元とではどちらが安全か、論じられることはないのだろうか?親水公園という名前を使うのであれば、やはり水面に近づける工夫はしていただきたいものだ。
- また人間は、すぐに自分たちが自然界のシステムの中に暮らす一機能であることを忘れ、必要以上のことをして自然界のサイクルを狂わせてしまう。その典型例がやはり水のように思えてならない。自然界の水は雨として地上に降り、地中に蓄えられ、また浄化されて湧き出し、川として海に流れる。その自然の営みに人間が手を加えることでさまざまな弊害が出てくる。もちろん水害対策という名目もあろう。治水や灌漑をもってして、農作物の安定した収穫をもたらすことにもなろう。しかし化学物質や必要以上に汚れた生活排水は河川が持つ浄化能力を超え、汚染物質がさまざまなかたちで蓄積されることになる。河口付近に位置する江東区あたりの河川は、ここだけで頑張ってきれいにしても、どうにもならない。水質改善はできるだけ上流から徹底してこないとムリである。それでも、近年はずいぶん水がきれいになったというのだから、それなりの努力が重ねられてきたのだろう。
- 以前に木場の東京都現代美術館がオープンする前年であるが、サウンドスケープの第一人者と言われるアーティストの方(名前はもう忘れてしまった)が、このあたりの音を採取したいというので、通訳と案内がてら同行したことがある。美術館のオープン当事は音の現代アートということで使われていた音源であり、非常に面白い経験であった。DATで録音する音は、お寺の鐘の残響や、橋の下で護岸に打ち付ける水の音など、日常では気付かないものが多かったが、これを再生すると、とてもその現場を想像することができないほど、不思議な世界が広がっていた。
- 特に水の音には魅了されたものだ。木造の船着場に打ち付けるあまりきれいでない水の音が、スタジオで再生すると、幻想的なまでに大自然を連想させる清水の響きを持っていたりする。また遠くで聞こえる車のホーンの音が、橋のしたで録音していた時には雑音にしか聞こえなかったのだが、これも実にスペイシーなエコーを伴って、空間的な広がりを連想させる響きとなっていた。音楽の魅力は十分に自覚を持っていたし、それなりに理解しているつもりだが、サウンドスケープのようなものに初めて接したときでもあり、自然が持つ音の奥深さに信じられないような思いをさせられた。
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