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下町音楽夜話

◆第223曲(1)◆ ステッピン・アウト
2006.9.30
もう何度か書いたことだが、自分は大学受験の頃に、ひどく体を壊し、21歳になってようやく大学に入学した。浪人時代は、今で言うひきこもりやニートに近い状態で、家でゴロゴロしていた時期も長かった。毎年大学受験はしていたが、受験した後に身体検査までされて落とされた大学もあれば、試験会場まで行って吐血し、答案用紙を汚しただけで帰ってきたこともあった。結果的には、それから25年以上生き続け、今は割りと健康的に暮らしているのだから、人生は皮肉なものだ。既に他界した同級生も幾人かいる年齢になり、あらためて健康であることの有り難さが身にしみる。むしろ生き続けるということが当たり前の人々とは少々事情が違っていたので、将来のことを考えるよりも、目前のことに集中して片付けていくしかない状況だったのである。

当時は、読書と音楽が大好きで(今もそうだが)、将来的な希望や目的を捨てる気は、さらさらなかったように思う。遠い昔なので、記憶があまり定かではないのだが、それでも、様々な曲に励まされ、多くの書物から自分なりの哲学を学び取り、自分なりに生きる力としていた。聴いていた音楽はロックが中心で、決して健康的なものばかりではなかったが、それでも元気付けられたことに変わりはない。時期的に重なるパンク〜ニュー・ウェーヴ期の音楽は、病的で不健康なものも多いから、そういうことを書くのだが、それにしても、外に向けて出て行こうとするエネルギーをもらっていたように思うのだ。時々出かけてはレコードと本を買って帰ってくるだけなのだが、それでも街中に身を置いていろいろ考えることが、習慣となっていた。あまり友だち付き合いのいい性格ではないので、当時から、一人で行動することが多かったが、別に寂しいわけでもなく、むしろ雑踏の中に居心地のよさを感じ取ってみたり、都会人の孤独を見つめ、考え、自分なりの生き方を都市生活の中で組み立てなおしていたものだ。

近頃は、学校教育のあり方が新聞紙面上でも取沙汰されたりしているが、「近頃の若者は・・・」ということは昔から言われ続けてきたことでもあり、今さらという気もする。近頃の子どもは、理由のない優越感を持って育てられ、わがままで自分勝手で、キレやすく、悪くても謝らなくて・・・、などと言われているが、もう少し上の世代であっても、新人類と呼ばれたりして上の世代の理解を超えた存在だったはずだ。ただ子ども同士が殺しあうような事件はなかったし、昔よりは他人の痛みを理解しない人間が増えているなとは思う。しかし、このことも含め、世代で括られることに迷惑だと感じている個人も多いはずで、一方的に大人(年配者)の価値観だけで判断するべきではないだろう。

そもそも、映画やテレビで人が殺されるシーンがあまりに簡単に描かれているために、相手の痛みを想像することすらせずに、凶行に及んでしまうのではという考え方は、間違っていないと思う。そういった悪影響は決して否定できないだろう。しかし、そういった部分から学ぶものも少しはあるのではないかと思いたい。サブ・カルチャーの中にある教えは、意外なほど人間を教育しているはずだ。もちろん反面教師としての役割だって全面的に否定することはできないだろうから。ただし自分自身でことの善し悪しを反芻して考え、自分が取るべき行動を決定するだけの思慮分別がなければ、それはオウムの洗脳と同じで、人の生命を軽視する人間が育っても仕方がないだろう。

いや、むしろ、子どもは社会の鏡といわれるだけに、社会に生命を軽視する風潮がないか総点検することも大事だろう。聞いたところでは、日本国内では、毎年40万とも50万とも言われる数の犬猫が行政によって殺処分されているというのだ。つまり野良犬などはほとんどいなくなった現在、ペットとして飼われていたものが殺されているということになる。ペットが飼えないマンションに引っ越すことになったとか、うるさいとか、大きくなりすぎてなどという、身勝手な理由で、都道府県が運営する動物愛護センターのような施設に持ち込んで、自らの手を汚すことなく、殺してもらっているというのだ。そんな施設に配属された行政職員も気の毒だが、やはり殺されるペットがあまりにかわいそうだ。

まるでブームのように人気の犬種は移り変わり、血統書つきの仔犬が10何万円もする値札をつけられて売られている。この軽薄な社会に原因がありそうなことも、十分想像に難くない。動物の生命は、簡単にリセットできるおもちゃとは違うという感覚が麻痺しているのだろうか。そもそもペットは人間社会の中にあって、人間に依存してこそ生きられる存在なのだ。野生の動物以上に、存在そのものが人間を癒し、人間の役に立ってくれる、有り難い存在なのだ。そのペットを、人間の都合で殺すということは、犯罪以外の何者でもない。こういった社会であるからこそ、他人の痛みを分かろうとしない人間が増えているのではなかろうか?新聞紙上に掲載された、子猫を崖から投げ落として殺すという人物の行動が物議を醸しているが、大いに議論し、しっかり考えて見ればよい。まずは、そこからだ。

話が大きくそれたが、いつ死んでもおかしくないような健康状態でも、音楽や書物から生きる力を与えられたということが言いたかったのだ。しかもたまたま時期的には、パンク〜ニュー・ウェーブの頃である。世の中には顔中に安全ピンのピアスをしたり、自傷行為に近いパフォーマンスを見せるミュージシャンもいた時代である。ヴェトナムの後遺症に悩むアメリカでは、「ディア・ハンター」のような映画が絶賛され、「かっこうの巣の上で」を見て、人間の尊厳や命の大切さ、自由の大切さを、焼き付けられた時代である。病的な社会であったことは、当時も変わらなかったはずだ。サブ・カルチャーの中に、今ほど情報が整理もされず、規制もされず、残虐なシーンが含まれる映画が子どもの目に触れる状態でもあった。

やはり、他人を思いやるやさしさや、自分なりに考えることをしっかり教えなければ、子どもじみた安易な考えと思いつきで行動するような犯罪も後を絶たないだろう。勿論、地域で子どもを育てるということも大事だ。親だけでなく、周囲の大人がみんなで、ことの善し悪しを教えていくのが、正しい社会のあり方なのではなかろうか。説教くさくなってしまったが、病的な匂いのする音楽の話題を取り上げるために、これだけの前置きをする必要があるという、昨今の事情をご理解いただきたい。