■第47回 『木場公園と材木商さん』 |
02年09月23日 |
- 以前、木場公園の事を書きましたが(第36回『広大な木場公園』参照)、ちょっと訂正があります。
- 木場公園は公園になる前、貯木場だったって書きましたが、違うそうです。普通の陸地だったそうです。すみませんでした。
- ただ、あながち嘘という訳ではありません。
- 江戸時代の古地図なんか見てみると、確かに木場公園、猿江公園のあたりは貯木用に掘割してある池になってます。明治になって埋め立てて街になったんです(街と言っても材木商さんの会社や倉庫が多かったみたいですけど)。
- 一応このコラムを書く時って資料とか文献を引っ張り出して書いてるんですが、資料の方が間違ってたみたいです。今回はちゃんと江東区役所にまで問い合わせて調べましたんで、合ってると思います。
- でもお役所ってのはすごいですね。ちゃんとこういう事の専門の部署ってとこがあって、そういう事に詳しい先生なんかも委託ではありますが雇っているんですね。驚きました。
- まあ下町ってとこは歴史のあるものが多いので、必然的にそうならざるを得ないのでしょうね。
- さて、なんでこんな事がわかったかといいますと・・・
- 私の知り合いに木場の材木商さんがいます(厳密には、今は新木場ですけど)。
- 木場公園の話をしていたところ「いや、俺が子供の頃、あそこは人が住んでたよ」と言われたんです。それが始まりでした。
- それから木場の話、材木商の話、いろいろ教えて頂きました。
- 当時(昭和の頃)、木場公園の場所に限らず、木場には貯木場としての大きな池は存在していなかったそうです。ところどころ小さな貯木場はあったそうですが、ほとんどが川だったそうです。
- なんで、江東区って川や運河が多いかわかりますか?材木の運搬用、保管用に運河が発達したんだそうです。
- そう言われてみると、川で木材の上で遊んで大人に怒られたなんて、少年時代の経験を持つ知り合いが何人かいます。私は家の近所に幸か不幸か小さい川があまりありませんでしたので、そんな経験はありませんでしたけどね。
- ただ、ダルマ船が筏を曳航して行く姿ぐらいは隅田川でよく見てました。
- では何であんなとこにあんな大きな公園ができたかって言いますと・・・新木場移転と公園建設が引き換え条件となっていたそうです。木場は、公害、水運の便などの問題から新しい土地が必要でした。
- 本来、木材は水につけておけば何年でももつそうなんですが、河川の水質汚濁のためそれがままならなくなってきたそうです。
- また、木場周辺の地盤低下に伴って木材を輸送しても川底の引っかかってしまうなんて事態が生じてきたそうです。
- そしてなによりも木場から海が遠くなってしまいました。江戸時代は葛西橋通り辺りはもう海だったんです。それが埋め立てが進んで木場は海へ木材を運ぶのは時間がかかるようになってしまったんですね。
- さて、その頃、江東区では災害時に区民が避難するための広大な土地を必要としていました。
- そこで新しい土地を提供する代わりにってことで交換条件が成立しました。木場の辺りは材木商の会社や倉庫が多かったんで立ち退きもすんなりいったんでしょうね。
- そんな経緯で木場公園と新木場はできたのです。でも、本当は木場公園ってもっと広くなるはずだったんだそうですよ。平野3丁目のあたりまで公園予定地だったんですが、立ち退きがうまくいかなかったらしいです。
- 最後にその知り合いの材木商さんが言ってました。
- 材木商も昔は、羽振りが良かったそうですが(確かにそんなイメージはありますよね)、不景気ってこともあって現在はそれほどでもないそうです。
- 要因の一つとして木材の加工工程が外国でおこなわれているという事があります。
- 以前は日本の山林で伐採された木材は木場に運ばれ、木場周辺で角材などに加工されました。しかし、今、木材は海外で伐採され人件費の安い現地で加工までしてしまうそうです。
- そのため木材は木場を経由する必要があまりなくなり、せっかくできた新木場の貯木場は有効利用されていないそうです。
- 木場には川並さんという筏師がいて、川河や貯木場に浮かぶ木材を仕切ってました。そんな人々の間から川並木遣や角乗りなどの伝統芸能が生まれました。
- 今後、そういったものはすたれていってしまうのかもしれませんね。寂しいものです。
- そういえば隅田川のダルマ船も最近は見なくなりました。
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